北畠家
北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、村上源氏の一流である公家・武家・華族だった家。 もとは村上源氏中院家庶流で大納言を極官としており、後世の家格に当てはめると羽林家相当の家であった[2]。 南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代末まで命脈を保ったが[3]、1576年(天正4年)に織田信長に滅ぼされた[4]。明治維新後久我侯爵家の分家として再興され、華族の男爵に叙されている[5]。 歴史鎌倉・南北朝時代中院家の家祖通方の子、雅家が洛北の北畠(現在の京都御苑北部)に移ったことから「北畠」を称し、代々和漢の学をもって仕えた。 北畠家には幼くして叙爵した者が多く、雅家の子・師親は『公卿補任』によれば生まれる前、師親の子・師重は2歳、師重の子・親房は生後5ヶ月、親房の子・顕家は3歳で叙爵しているが、これは三条実重や大宮季衡、洞院公賢・洞院公敏のように、北畠家が天皇の私的に近い臣下であったことが原因であると考えられる。雅家の母の甥(雅家の従兄弟)に当たる源雅具は、当初皇位とは無縁であった邦仁王(後の後嵯峨天皇)に早くから仕えていたため、邦仁王の即位に伴い公家社会を昇進することになるが、雅家も雅具と同じ時期から同じように出世していることから、雅家も同様に即位前の邦仁王に仕え、それによって雅家の子孫達も早くから叙爵されることになったと考えられる[6]。 北畠家は後嵯峨天皇以降大覚寺統との関係が深く、後嵯峨上皇出家時には雅家が、亀山上皇出家時には師親が、後宇多上皇出家時には師重が出家している。 鎌倉時代末期の北畠親房は、後醍醐天皇の建武の新政を支え、後醍醐没後には南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を記した。親房の長男北畠顕家は、父とともに義良親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州鎮定に赴き、建武政権から離反した足利尊氏を京都から追い、次弟の北畠顕信とともに南朝勢力として足利方と戦った。 室町時代親房の三男北畠顕能は伊勢国司となり、以後の北畠家宗家は伊勢に定着した[注釈 1]。室町時代に入っても伊勢で独自の勢力を持ちその支配形態は国司体制を維持するいわば公家大名というべきものであった[3]。幕府の伊勢守護の勢力圏が北伊勢に限られたのに対し、雲出川以南の一志郡、飯高郡、飯野郡、多気郡、度会郡といった南伊勢は北畠家が掌握していた[10]。また、歴代の当主は一志郡の多芸城(霧山城)を居城とし、多芸御所と呼ばれた。 南北朝合一後、明徳の和約が守られず北朝系によって天皇位が独占されるようになったことに反発し、応永22年(1415年)に北畠満雅が室町幕府に対して挙兵した[11]。一度は和睦したが、正長元年(1428年)7月に嗣子のなかった称光天皇が崩御した際も北朝傍流の後花園天皇が後継に選ばれたため、小倉宮聖承を担いで再び反乱を起こしたが、幕府の大軍に攻められ、同年(1429年)12月に安濃郡岩田川にて討ち死にした(岩田川の戦い)[11][12]。この戦いで北畠家は一志郡・飯高郡を失い、それぞれ長野満藤、土岐持頼に与えられたが、のちに幕府から返還された。 嘉吉元年(1441年)、足利義教が暗殺された嘉吉の乱が起きると、首謀者の1人で縁戚関係にある赤松教康が国司北畠教具を頼ってきたが、保護を拒否して自害させ、幕府への恭順を示している。 応仁元年(1467年)の応仁の乱では、戦火を逃れて伊勢にやってきた足利義視を保護している。北畠家は東軍方に付いたが、洛中の戦闘には参加していない。他方、敵対する北伊勢の長野工藤氏は西軍に付いている。 室町時代後期、教具・政郷・材親の三代に関しては、断続的に幕府から伊勢守護に任命され、伊勢国司と守護を兼任した[13]。 伊勢北畠氏からは木造氏(一志郡)、大河内氏(飯高郡)、坂内氏(飯高郡)、田丸氏(度会郡)、星合氏(一志郡)、波瀬氏(一志郡) 、岩内氏(飯高郡)、藤方氏(安濃郡)の諸氏が分かれ出て[14]、それぞれ御所と称された。木造御所は北畠庶流の筆頭であったが、木造御所の官位は北畠宗家・多芸御所を上回ることもあり、度々宗家と対立した。そのため、田丸御所・坂内御所・大河内御所の三家が北畠三御所となり、なかでも大河内氏は筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場にあった[要出典]。 また奥州や津軽には、北畠顕家の子孫説や北畠顕信の子孫説、または顕家(または顕信)の子孫が入婿となったとされる北畠庶流が浪岡御所として存続していた。 戦国・安土桃山時代![]() 戦国時代に入ると、英主・北畠晴具が現れ、北畠家は南伊勢、志摩国、伊賀国の南部、大和国の南部、紀伊国の東部にまでに及ぶ一大勢力となった[15]。他方、北伊勢の雄たる長野工藤氏とは激しく争ったものの、決着をつけることができなかった。 晴具の子の具教の代には、長野工藤氏を従わせて北伊勢に進出し、志摩への支配も強めるなど、戦国大名として最盛期を迎えた[16][17]。また、永禄5年(1562年)5月に長野稙藤と長野藤定が死去したため、長野工藤氏の支配権を完全に握った。 しかし、具教の子の具房の代になると、伊勢国は度々織田信長の侵攻を受けるようになり、北畠家の旗下であった長野工藤氏、神戸氏が次々織田家に服属して信長の弟や子を当主に迎え、織田家に乗っ取られていった。 永禄12年(1569年)8月、織田信長の侵攻を受け、大河内城を包囲・攻撃され、10月に将軍・足利義昭の仲介で和議を結んだ(大河内城の戦い)[18]。その結果、信長の次男・織田信雄を北畠具房の養子とし、かつ先代・具教の娘である雪姫(千代御前)の婿に迎えるという織田家に有利な形で講和することとなった[16][17]。信雄は1575年(天正3年)に北畠家の家督を相続する。この時、木造氏の当主は具教の実弟・木造具政であったが、織田家に内通している。 天正4年(1576年)11月、三瀬御所に隠居していた具教は、信長の命を受け信雄が放った刺客により館を急襲され、四男・徳松丸、五男・亀松丸と共に暗殺された[16][17]。次男・長野具藤、三男・北畠親成は田丸御所にて、大河内教通、波瀬具祐、岩内光安、坂内具義と共に殺害され、坂内御所においては坂内具房、霧山御所においては城代・北畠政成、および波瀬具通が殺害された(三瀬の変)。北畠一門抹殺の理由としては、足利義昭の信長包囲網に組する武田信玄の西上作戦に際して、具教が船を出すと密約を交わしていたことなどがあげられる[17]。 具房はその身柄を滝川一益に預けられ、安濃郡河内に3年間幽閉された後、天正8年(1580年)1月5日に京都で死去した。これら一連の信長の行動により北畠家は名実ともに織田家によって乗っ取られた。 天正10年(天正10年)6月、信長が本能寺の変で死去すると、備後に逃れていた具教の実弟・北畠具親が伊勢五箇篠山城に戻り再挙するが落城、後に蒲生氏のもとに客臣として迎えられた。変後の清洲会議にて、信雄は織田家の後継者になろうと画策し、織田姓に復したため、伊勢国司家としての北畠家は滅亡した。 再興中院通勝の子親顕が北畠家の名跡を継承したが、寛永7年(1630年)、親顕が没し、跡継ぎがなく最初の再興北畠家は断絶した。 次に再興されたのは明治時代だった。幕末維新期の久我家当主久我建通の四男通城は明治元年(1868年)9月に越後国柏崎県知事、明治2年(1869年)4月に兵庫県知事に就任するなど若くして要職を歴任したため、久我家の嫡子ではないものの昇殿を許された。これをもって通城に久我家の庶流として新たに堂上家を興すことが許されたとする説があるが、実際にはそうではなく一代限りで堂上並として扱われたものと考えられる[19]。建通によれば、明治3年(1870年)3月に彼が通城を当主とした北畠家を再興させたい旨を政府に願い出たところ、権判官醍醐忠敬から通城に昇殿が許されたのは一代限りのことであり、堂上家といえども次男が北畠に改姓することは認められないとして請願を却下されたという[19]。 通城は一代限りの堂上だったため、華族制度成立後の当初は一代限りの終身華族になっていたが、明治3年(1870年)11月に通城に永世禄245石1斗の支給があり、これをもって通城は一家を新たに起こすことを許されて終身華族から永世華族になったと考えられ、そのため明治4年7月19日付けで通城に北畠への改姓が許されている[20]。北畠親房の後裔としての御家再興だった[21]。華族が五爵制になった明治17年(1884年)に北畠通城には男爵位が与えられ[5]、後に北畠親房、顕家らを祭る霊山神社の宮司を務めた。昭和前期に北畠男爵家の邸宅は東京市杉並区神明町にあった[21]。 歴代当主
北畠家は大名化しても公家としての意識は持ち続け、伊勢国司家の歴代当主の花押は武家ではなく公家のものであった[13]。 北畠男爵家子孫
系譜北畠家
凡例:実線は実子、破線は養子。丸数字は歴代伊勢国司。
庶流・星合氏
主要家臣北畠四管領室町時代に伊勢国に勢力を有した国司大名北畠氏の一門かつ重臣の中で特に有力な者を四管領と称した。北畠四管領、伊勢四管領とも。太田亮編『姓氏家系大辞典 第2巻』(角川書店、1934年)に曰く「又、四管領あり。事を掌る。その族を坂内、田丸、木造、波瀬、藤方の諸氏となす」とある[32]。 その他の家臣一覧脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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