古プロイセン合同福音主義教会![]() 古プロイセン合同福音主義教会(こプロイセンごうどうふくいんしゅぎきょうかい、ドイツ語: Die Evangelische Kirche der altpreußischen Union (Abk. EKapU, APU[1]))は、1922年から1953年までプロイセン州及びその後継州における福音主義州教会の名称であった。また、この教会は1817年から1953年まで異なった名称で存在していた。1945年から1948年まで州教会の上部組織として存在しており、1953年から福音合同教会 (EKU) に改称して2003年まで存続していた。1817年9月27日にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世王は、プロイセン王国においてルター派教会と改革派教会が一つの合同教会になるように指示した。彼は福音主義改革派教会、とりわけユグノー(フランス改革派教会)、ニーダーラインとフンスリュック、ベルク公国、ジーガーラントの一部に住む改革派教徒たちとプロイセン領民の大部分を占めるルター派教徒が分かれていることは時代精神に合致していないと考えていた。すでに、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯がベルリン宗教会議で新教の異なった信仰告白を克服しようとしていた。教会行政上の統合が重要な目標であって、信仰告白の統合は目標とされていなかったが、一部の教会共同体において信仰告白の統合がおこなわれた。 教会名称の変遷とプロイセン王国における教会の状況![]() この領邦教会の正式名称とは別に、古プロイセン教会、古プロイセン領邦教会、あるいは古プロイセン合同教会というような呼称が存在していた。その他にプロイセン領邦教会という名称も使われていた。1866年以降、この教会の実体を不正確なまま示す福音主義国教会という名称も使われていた[2]。当時併合された非プロイセン地域において、この合同教会はプロイセン王国の領邦教会という存在そのものであった。
歴史1817年、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の指示によって、プロイセン福音主義教会と呼ばれた合同教会が設立された。合同教会と言っても大部分はルター派教会であったが、ラインラント州のデュースブルク、ヴッパータール周辺では改革派教会が固まって存在しており、ベルリンにはユグノーの伝統を守るフランス改革派教会が少数派として存在していた。1840年、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が即位すると、教会合同を拒否していた古ルター派への弾圧が止められ、1845年には古ルター派のプロイセン福音ルター派教会も国家から許可された上で設立された。この古ルター派教会は領邦教会ではなく、教会塔の建設と鐘を鳴らすことを禁じられていたがプロイセン全土で活動を始めた。領邦教会ではないこの古ルター派教会との違いを明瞭にするために、プロイセン福音主義教会は1845年からプロイセン福音主義領邦教会という名称に変更している。 1850年には南シュヴァーベンにあったホーエンツォレルン=ヘヒンゲンとホーエンツォレルン=ジグマリンゲンが領土をプロイセン王国に譲渡したため、当地の福音主義教会はホーエンツォレルン教会地区としてプロイセン福音主義領邦教会に組み込まれた。1899年に、この教会地区はラインラント教会州地区に属することになった。 1866年にプロイセン王国は普墺戦争に勝利し、隣接する領邦を併合した。福音主義教会に関して、併合した地域の教会をプロイセンの領邦教会に組み込むことはせず、従来どおり旧領邦単位で存続させた。合同派の領邦教会はフランクフルト、ヘッセン=カッセル、ヘッセン=ナッサウであり、ルター派教会はハノーファー、シュレースヴィヒ=ホルシュタインであった。併合されたハノーファー周辺には改革派教会共同体が散在していたが、1882年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の仲介によって北西ドイツ福音主義改革派教会が設立され統合された。 1875年、古プロイセン領邦教会は公式には古プロイセン州福音主義領邦教会と改称することになった。この領邦教会は9つの教会州で構成されていた。すなわち、ブランデンブルク(ベルリンを含む)、東プロイセン、ポンメルン、ポーゼン、ラインラント(南シュヴァーベンのホーエンツォレルン地区を含む)、ザクセン、ヴェストファーレン、西プロイセンである。 ![]() ベルリンダーレム地区にあり、告白教会の中心的存在だった。 第一次世界大戦末期の1918年、皇帝ヴィルヘルム2世は退位を強いられ、領邦教会統治権を失った。そのため、古プロイセン領邦教会は1922年に新教憲を制定し、古プロイセン合同福音主義教会(EKapUもしくはApU)と改称した。さらに教会州地区の組織は民主化された。1922年以降、9つのそれぞれの教会州地区は州教会常議員会の下で運営されるようになった。その常議員は教会州地区総会で投票によって選出された。教会宗務局は教会州地区の教会行政機関になり、高位聖職者である地区長と法律家によって構成された。 ナチス・ドイツの統治時代、告白教会において広範囲な抵抗運動がおこなわれた。しかし、告白教会は教会全体において少数派に過ぎなかったことは注意すべきである。1934年、バルメン宣言が発表され、合同教会では信仰告白文書として見なされた。ルター派と改革派教会の伝統を持つキリスト者が合同教会の信仰告白と見なして、この文書が発表されたのである。ビルケンフェルト地区の教会が1934年6月25日に古プロイセン合同福音主義教会に統合され、ラインラント教会州地区に含まれることになった。1933年9月5日、古プロイセン合同福音主義教会はアーリア条項を牧師たちに適用した。その措置に対抗して、1933年9月21日、牧師緊急同盟がドイツ全国で設立された(牧師総数の3分の1以上の7036名加入)。 第二次世界大戦後、オーデル=ナイセ線がドイツの東部国境になった。1918年/1920年の時とは異なり、この国境線の向こう側に住むドイツ人は生まれ育った土地から完全に追放された(ドイツ人追放)。したがって、東プロイセン(現ポーランド領、およびロシア領のカリーニングラード州)、ブランデンブルク東部、ヒンターポンメルン、シュレージエン(ナイセ川以東)のドイツ人の教会共同体も教会州地区も存続することは出来なかった。東欧や旧ソ連各地において、ルター派教会はドイツ国籍以外の者たちによって再編された。ポーランド福音主義アウクスブルク信仰告白教会、ロシア、ウクライナ、カザフスタン、中央アジア福音ルター派教会が新たに設立された。旧ソ連のルター派教会にはエカチェリーナ2世の時代に移民したドイツ系住民(ヴォルガ・ドイツ人)が主に属している。 ドイツに残った教会指導部はオーデル=ナイセ川西側の教会州地区において存続していた。ブランデンブルク、ポンメルン、ラインラント、プロヴィンツ=ザクセン、シュレージエン、ラインラント、ヴェストファーレンの教会指導部は1945年ヘッセン州トライザ(シュヴァルムシュタット東部)に新教憲を制定するために集まった。教会州地区ごとに独自の州教会を組織することになった。
上記の州教会の指導部は1949年、1950年、1954年に会合を持ち、最終的には福音合同教会 (EKU) という名称の上部組織を発足させた。この上部組織は傘下の州教会とは別にドイツ福音主義教会(EKD)にも加盟し、2003年まで存続した。1960年には合同教会であるアンハルト福音主義教会が加盟した。 1945年、ヴュルテンベルク福音主義州教会は暫定的に南シュヴァーベンのホーエンツォレルン地区の旧プロイセン合同教会を組織に組み入れた。南シュヴァーベンのホーエンツォレルン地区の教会は1950年になって正式にラインラント福音主義教会からヴュルテンベルク福音主義州教会へと所属を変更した。 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世による礼拝式文プロイセン合同福音主義教会には、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世王によって作成された礼拝式文が下賜された。その式文はニュルンベルクのルター派教会礼拝式に倣ったものであり、ローマ・カトリック教会のミサに準拠したものであった[3]。ラテン語でおこなわれていた当時のローマ・カトリック教会のミサとは異なり、ドイツ語での礼拝式文(祝祭日にはラテン語式文も挿入することも容易だった)であったが、プロイセン領邦教会の礼拝は宗教改革以前のミサ様式に戻ってしまった。 主日礼拝式文
聖餐式文
参考文献
脚注
外部リンク
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