古澤勝吾
古澤 勝吾(ふるさわ しょうご、1996年9月5日 - )は、滋賀県長浜市(旧木之本町)出身[1]の元プロ野球選手(内野手、右投右打)。YouTuber。姓の表記が文献などによっては「古沢」の場合もある。 経歴プロ入り前木之本小学校2年生の時に「木之本球友クラブ」で野球を始め、当時は投手兼三塁手だった[2]。木之本中学校では「湖北ボーイズ」に所属し、3年生の時に全国大会に出場した[3]。 九国大付属高校では1年生の秋に遊撃手のレギュラーになり、2年生の時から3番を務めた[3]。3年生の時の夏の甲子園・福岡大会5回戦の福岡工大城東戦でサイクルヒットを記録した[3]。チームは福岡大会で優勝、全国大会に出場したが1回戦で東海大四(現・東海大札幌)に1-6で敗れた[4]。自身は3番・遊撃手で先発出場、4打数1安打だった[5]。高校通算27本塁打[6]。 2014年10月23日に行われたプロ野球ドラフト会議で福岡ソフトバンクホークスに3巡目で指名され[6]、年俸600万円で契約合意し[7]入団した[8]。背番号は59。高校の同級生である清水優心[4]も、同ドラフトで北海道日本ハムファイターズに2位で指名され入団した[9]。 プロ入り後2015年は二軍公式戦に二塁手・三塁手・遊撃手として58試合に出場し、154打数31安打19打点、1本塁打、打率.201の成績だった[10]。 2016年、一軍公式戦の出場は無く、二軍公式戦において64試合に出場し、打率.220、9打点の成績を残す[11]。シーズンオフの11月25日から台湾で開催された2016アジアウインターベースボールリーグのNPBウエスタン選抜メンバーに選ばれ[12]、大会では18試合に出場し、51打数14安打14打点、1本塁打3盗塁、打率.275の成績だった[13]。 2017年、前年に引き続き一軍公式戦の出場は無く、二軍公式戦では41試合に出場。打率.120、5打点と成績が低迷した[14]。 2018年も一軍公式戦出場はなく、11月30日に自由契約公示され、同年11月20日に育成選手として再契約された[15]。背番号は124。 2019年は三軍が主戦場となり、二軍では打率.117という成績に終わるも、引き続き育成選手として再契約。 2020年は打撃の調子が上向き、二軍公式戦61試合に出場して打率.276。特に後半に調子をあげ、9月の月間打率は.440、10月も3割を打っていた。しかし、支配下登録に戻ることなく、11月4日に球団より戦力外通告を言い渡された[16]。 現役引退後現役引退後の2021年より、ソフトバンクの野球振興部に所属して「ホークスジュニアアカデミー」のコーチを務める[17]。 2023年からは球団のアマチュアスカウトに就任し、東海地方、滋賀県、福井県を担当する[18]。 選手としての特徴・人物50mを6秒0で走る俊足と遠投110mの強肩を誇る内野手[19]。俊敏なフットワークを生かした守備範囲の広さと球際の強さが武器[19]。打撃面ではパンチ力を秘める[20]。 幼少期は父親と二人三脚で練習に励んだ[19]。練習はスパルタ式であり、自身が学校から帰宅すると父親が仕事から戻るまで走り込み、帰宅後は投球練習、ティー打撃と毎日夜21時過ぎまで過酷なメニューをこなした[19]。古澤は当時を振り返り、「試合で結果を残せない日は大変だった。試合会場から『走って帰れ!』と言われて泣きながらランニングをしていた。記憶する限りだと10キロ以上はあったと思うけど途中、友達の車に乗せてもらって命拾いした。(父は)厳しいだけでなく、結果を出せば褒めてくれる。アメとムチがあったから付いて来られたと思う。高校入学後も遠いのにわざわざ滋賀から試合を見に来てくれて。何とか恩返ししたい」と語っている[19]。 詳細情報年度別打撃成績
背番号
登場曲
代表歴
脚注
関連項目外部リンク
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