吉田 清風(よしだ きよかぜ、1871年6月22日(明治4年5月5日) - 1950年(昭和25年)4月9日[1])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
鹿児島県出身[1]。吉田清貫、トモ夫妻の長男として生まれる[1][2]。1891年7月17日、海軍兵学校(18期)を卒業し、1894年4月18日、海軍少尉任官[1]。
日清戦争では運送船監督(近江丸等乗組)として出征した[1][3]。1895年2月、八重山航海士となり、以後、竹敷要港部第二水雷敷設隊分隊長、橋立水雷長兼分隊長、金剛航海長、砲術練習所教官兼分隊長、磐手回航委員(イギリス出張)、同分隊長、竹敷要港部第三水雷艇隊艇長などを歴任し、1902年7月、海軍大学校(将校科甲種第4期)に入学したが、1903年12月に中退し第三艦隊参謀に発令され日露戦争に出征した[1][3][4]。
1905年12月、海軍大学校に復学し、1906年7月、同校を卒業して同校教官兼副官に就任[1][4]。以後、敷島副長、第二艦隊参謀、鞍馬副長兼横須賀海軍工廠艤装員を経て、1911年12月、海軍大佐に昇進し音羽艦長に就任[1][5]。その後、第二艦隊参謀長、軍令部参謀兼臨時建築部部員・航空術研究委員長などを務め、1916年12月、海軍少将に進んだ[1][5]。軍令部参謀兼臨時建築部部員、軍令部出仕、横須賀海軍航空隊司令、第二遣外艦隊司令官などを経て、1920年12月1日、海軍中将に昇進し、海軍将官会議議員、馬公要港部司令官を務め、1921年12月26日待命、1922年12月26日休職、1923年3月31日予備役、1933年5月5日後備役を経て、1938年5月5日に退役した[1][5]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。
栄典
- 位階
- 勲章
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 『日本海軍史』第9巻、466-467頁。
- ^ 『人事興信録』第6版、よ43頁。
- ^ a b 『日本海軍将官辞典』409頁。
- ^ a b 『日本陸海軍総合事典』第2版、643頁。
- ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』70頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」97頁。
- ^ 『官報』第3258号「叙任及辞令」1894年5月12日。
- ^ 『官報』第4413号「叙任及辞令」1898年3月22日。
- ^ 『官報』第5963号「叙任及辞令」1903年5月21日。
- ^ 『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。
- ^ 『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1916年12月29日。
- ^ 『官報』第2517号「叙任及辞令」1920年12月21日。
- ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。p3
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。
- ^ 『官報』第8679号「叙任及辞令」1912年5月27日。
- ^ 『官報』第1070号・付録「叙任及辞令」1916年2月28日。p6
- ^ 『官報』第2296号「叙任及辞令」1920年3月31日。
- ^ 『官報』第2660号「叙任及辞令」1921年6月14日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
- 人事興信所編『人事興信録』第6版、1921年。