鞍馬 (巡洋戦艦)
鞍馬(くらま)は[27]、日本海軍の巡洋戦艦(建造時は装甲巡洋艦)[3][5]。艦名は鞍馬山に由る[28]。伊吹と姉妹艦[29]。 艦歴建造1904年(明治37年)日露戦争による臨時軍事費により予算成立[7]。1905年(明治38年)1月31日、横須賀宛に製造の訓令が出された[4]。同年6月11日、日本海軍は寅号装甲巡洋艦の艦名を「鞍馬」と内定する(第一号装甲巡洋艦は伊吹を予定)[30]。8月23日、寅号装甲巡洋艦は横須賀海軍工廠で起工[28]。1907年(明治40年)10月21日午後3時7分[10]、(第3船台より[31])進水[28][32]。進水式には明治天皇皇后(のち昭憲皇太后)が臨席した[32][33]。進水重量は6,380英トン、横須賀での主力艦進水は既に薩摩で経験しており、鞍馬は順調に進水した[34] 。同日附で寅号装甲巡洋艦は制式に「鞍馬」と命名[27]。一等巡洋艦に類別される[3]。1911年(明治44年)2月28日、竣工[28]。計画時点では、香取型戦艦に準ずる砲力を持つ高速艦であったが、ドレッドノートの出現により、進水時点で既に旧式艦としての性格を帯びた艦となった。翌3月1日第2艦隊に編入された[35]。 遣英艦隊就役直後にジョージ5世の戴冠記念観艦式に参加するため、本艦は「利根」とともに遣英艦隊(司令長官:島村速雄中将)を編成した[28]。1911年(明治44年)3月下旬、島村中将及び鞍馬・利根乗組員は明治天皇に拝謁する[36][37]。 4月1日、巡洋艦2隻(鞍馬、利根)は横須賀を出港[38]。6月24日にスピットヘッドでの観艦式に参加[28]。11月22日(または12日[39])、横須賀に帰投した[40]。12月1日、第2艦隊を外れた[41]。 1912年度1912年(明治45年)2月20日、主砲塔上に3インチ子砲装備の訓令が出された[42]。 同年(大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表を改訂する[43]。伊吹以下4隻(筑波、生駒、鞍馬、伊吹)が巡洋戦艦に類別された[44][5]。 12月1日、第1艦隊に編入された[45]。 1913年度1913年(大正2年)2月10日打狗を出港、南清方面の警備を行い17日馬公に帰着した[39]。 第一次世界大戦
1914年(大正3年)8月10日第2艦隊に編入[46]、 8月18日時点では、金剛、比叡、鞍馬、筑波の4隻で第1艦隊第3戦隊を編制していた[47]。同日佐世保を出港し、以後東シナ海の警備を行った[39]。8月23日に日本はドイツに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦した。 9月14日に鞍馬(旗艦)、筑波、浅間、第16駆逐隊(海風、山風)、南海丸、遠海丸で第1南遣枝隊を編成、17日に二見港を出港し[39]、通商保護とマリアナ諸島及びカロリン諸島の占領支援に従事した[28]。翌1915年(大正4年)1月17日、横須賀軍港に帰港した[39]。 1915年度1915年(大正4)年5月7日呉港を出港し、揚子江方面の警備を行い、11日中甑浦に帰着した[39]。5月20日、第3戦隊旗艦となる[48]。 呉出港前の5月4日、鞍馬のビルジキール改造が訓令された[49]。在役中のまま都合を見て速やかに工事を行い、艦隊に復帰することが希望され[50]、 9月8日にビルジキール改造後の公試運転が行われた[51][52]。 10月9日横須賀で、第3戦隊旗艦は安芸から鞍馬に変更となった[53]。 1916年度1915年(大正4年)12月13日、第1艦隊第2戦隊に編入、第2戦隊は鞍馬と生駒の2隻編制になった[54]。12月15日、第2戦隊旗艦となる[55]。 1917年度1916年(大正5年)12月1日、第2戦隊を外れる[56]。1917年(大正6年)7月23日、呉において大正6年度予算により大修理(機関総検査)他を行う訓令が出され[57]、ビルジキール後端を147フレームから更に3フレーム延長する工事も行われた[58]。1918年(大正7年)3月まで、大修理(大改造)を施行した[2]。3月26日行われた修理公試は19.879ノットの成績だった[59]。 1918年度1918年(大正7年)4月1日、第3艦隊第5戦隊に編入[60]。5月18日、応用教練射撃実行のため鎮海西湾から単独出港中の9時10分、巨済島東岸で海図に無い暗礁に触れた[61]。右舷ビルジキール下方、ビーム40番から60番までのリベット列が切断、最大幅約6インチ(約15cm)の破口が出来[62]、二重底などに浸水した[63]。 5月18日から28日まで鎮海要港部修理工場で応急修理を行い、29日佐世保に帰着した[64]。鎮海で応急修理中の7月25日、第5戦隊を外れた[65]。 同年12月1日、第3艦隊第5戦隊に復帰、第5戦隊は鞍馬、伊吹、三笠の3隻編制となった[66]。 1919年度シベリア出兵の支援に参加した[67]。6月22日大湊を出港しロシア沿岸を航行、7月17日清津に帰着した[39]。 1919年(大正8年)8月19日から25日の間、伊吹、鞍馬、明石の3隻は富山県伏木、石川県穴水、輪島、金石港を訪問した[68]。24日25日に金石港に停泊した際は、伊吹、鞍馬の乗員約500名が上陸し金沢市を訪れた[69]。この2日間で一般公開の参加者は約2万人となった[70]。 同年9月から10月、40cm信号用探照灯2基を佐世保海軍工廠で設置した[71]。 1920年度前年に引き続きシベリア出兵の支援に参加した[67]。1920年(大正9年)5月22日小樽を出港しロシア沿岸を航行、7月17日小樽に帰着[39]。7月25日小樽を出港し、10月10日大泊に帰着[39]。10月13日大泊を出港し、10月20日小樽に帰着した[39]。 12月1日、第5戦隊を外れた[72]。以後、艦隊編入(就役)は無い[73]。 1921年度1921年(大正10年)、海軍思想普及のため、呉鎮守府管轄1府10県の地方官公使と青年団長や新聞記者などを便乗させ、3月下旬の約1週間、朝鮮半島南部を巡航した[74]。3月24日呉港で便乗者310名を乗せて、午前7時18分出港、戦闘訓練や艦内見学を行い[75]3月25日7時34分鎮海に入港、便乗者は上陸し汽車で京城へ向かった[76]。鞍馬は3月28日釜山に回航、同地で一般公開を行った[77]。京城から戻った便乗者が夕方再び鞍馬に乗艦し、午後8時2分出港した[77]。3月29日午後4時58分別府に入港、便乗者の一部が退艦した[78]。翌30日午後8時47分別府を出港[79]、31日第一艦隊の訓練を見学し、午前8時55分呉に入港、便乗者が上陸し巡航は終了した[80]。 また、大分県主催で第14回九州沖縄8県連合共進会が開催され[81]、4月上旬から約10日間、大分港、宇和島港に鞍馬が回航することが決まった[82]。4月11日呉発[83]、周防(11日福岡発[83])と共に大分港に停泊した[84]。周防は12日大分港を出港したが[85]、鞍馬は21日まで停泊、22日[86]から26日まで宇和島港に停泊した[87]。27日三津浜港(松山港)に寄港[88]、29日には呉港に帰着した[89]。 廃棄1922年(大正11年)2月6日締結のワシントン海軍軍縮条約により廃棄が決定[28]。鞍馬は10月の時点で第4予備艦となって[90]佐世保軍港に繋留されたおり[91]、定員は102名(艦長と機関長は欠員の予定)となっていた[92]。 1923年(大正12年)9月20日、除籍[12]。艦艇類別等級表からも削除された[93][94]。旧鞍馬の兵装撤去工事は佐世保海軍工廠で行われ、11月8日までに魚雷発射管の陸揚げは終了[95]、続けてボイラーの陸揚げを11月9日から[96]29日まで行った[97]。1925年(大正14年)1月19日、神戸製鋼所で解体は完了した[67]。 艦長※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
公試成績
ギャラリー
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目 |
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