吉谷久雄
吉谷 久雄(よしたに ひさお、1903年10月30日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。本名石井 清一(いしい せいいち)、旧芸名市川 喜有利(いちかわ きうり)[1][2]。松竹蒲田撮影所が1920年代に推進した「短篇喜劇」の主演俳優として知られる[1]。 人物・来歴1903年(明治36年)10月30日、広島県尾道市長江町(現在の同県同市長江)に生まれる[1][2]。 広島県立福山中学校(現在の広島県立福山誠之館高等学校)に進学するも、満16歳を迎える1919年(大正8年)、同校を中途退学する[1][2]。当時日本領であった朝鮮、日本の租借地であった大陸の大連(現在の中華人民共和国遼寧省大連市)等を放浪する[1]。同年中に帰国、二代目市川猿之助に弟子入りし、歌舞伎役者となって「市川 喜有利」と名乗る[1][2]。 1924年(大正13年)、東京の松竹蒲田撮影所に入社、映画俳優となって「吉谷 久雄」と改名する[1]。当初は同撮影所が当時製作していた時代劇に端役出演していたが、1927年(昭和2年)1月5日に公開された鈴木傳明主演、鈴木重吉監督の『冬休み』に脇役でクレジットされたあたりから、持ち前の短躯と愛嬌のある顔つきが現代劇に居場所を見出し始める[1]。同年5月22日に公開された佐々木恒次郎監督の『すね者』に、佐々木清野演ずる女賊の子分を演じて主演し、同年7月には準幹部に昇進する[1][3]。1928年(昭和3年)1月5日に公開された牛原虚彦監督の『近代武者修行』以降、「鈴木傳明主演作の三枚目」のポジションを確立する[1]。傳明とは公私ともに兄弟分的な関係となる[1]。それと並行して、城戸四郎所長の推進する「短篇喜劇」の常連出演者となる[1]。鈴木傳明主演、牛原虚彦監督の『彼と人生』(1929年)では、横尾泥海男の「大きな勞働者」に対して、吉谷は「小さな勞働者」役で出演している[10]。 1931年(昭和6年)9月、鈴木傳明の蒲田退社に随行して同社を退社、同様に退社した渡辺篤らとともに不二映画社の設立に参加する[1][3]。1933年(昭和8年)3月、同社解散後は、同年4月に古川ロッパが設立した劇団「笑の王国」に参加、同年8月10日に公開された木村荘十二監督による写真化学研究所(のちのP.C.L.、現在の東宝の前身の一社)の第1回自主製作作品『音楽喜劇 ほろよひ人生』に出演した[1][3][9]。同作では、かつて『彼と人生』で演じたのとまったく同一の対比のキャスティングが行なわれ、横尾泥海男の「親泥棒」、吉谷の「子泥棒」の凸凹コンビを演じている[11]。 同年10月には、京都に移り、日活太秦撮影所現代劇部に入社した[1][3]。翌1934年(昭和9年)に、同社が現代劇の機能を新設の日活多摩川撮影所に移すとともに異動になり、1942年(昭和17年)1月27日の戦時統合による大映の設立以降も継続入社、日活多摩川撮影所改め大映東京第二撮影所(のちの大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所)に所属して、脇役出演を続けた[1][3][9]。 第二次世界大戦終結後も同撮影所に所属して、脇役出演をしていたが、満46歳のときの1950年(昭和25年)4月15日に公開された木村恵吾監督の『浅草の肌』以降の出演記録が見当たらない[1][3][4][6][9]。その後の消息は不明とされていた[1]が、1968年(昭和43年)7月20日に発行された牛原虚彦の著書『虚彦映画譜50年』(鏡浦書房)において、横尾泥海男、斎藤達雄、小林十九二、関時男、岡田宗太郎らと共に、同書執筆の時点で既に故人であるという旨が記されている[12]。没年不詳。 フィルモグラフィ![]() ![]() ![]() すべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9][13]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 松竹蒲田撮影所特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[3][4]。
不二映画すべて製作は「不二映画社」、すべて配給は「新興キネマ」、すべてサイレント映画である[3][4]。
P.C.L.すべて製作は「写真化学研究所」、すべて配給は「東和商事映画部」、すべてトーキーである[3][4]。
日活太秦撮影所すべて製作は「日活太秦撮影所」、すべて配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][8]。
日活多摩川撮影所特筆以外すべて製作は「日活多摩川撮影所」、すべて配給は「日活」、特筆以外すべてトーキーである[3][4][8]。
大映東京撮影所特筆以外すべて製作は「大映東京撮影所」、特筆以外すべて配給は「大映」、以下すべてトーキーである[3][4]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
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