呂号第四十九潜水艦
呂号第四十九潜水艦(ろごうだいよんじゅうきゅうせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂三十五型潜水艦(中型)の15番艦。 艦歴1942年(昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画)[1]により、1942年11月16日、三井玉野造船所で起工。1943年(昭和18年)8月3日進水。1944年(昭和19年)5月19日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、舞鶴鎮守府籍となり[3]、呉鎮守府呉潜水戦隊第33潜水隊に編入された。 7月、呂49は伊157と共に13号電探を搭載し試験を行った。8月15日、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入。 16日、呂49は呉を出港し、ルソン島東方沖に進出[4]。28日、荒天で聴音機が故障したため、哨戒を中止。12月7日、呉に到着[4]。 1945年(昭和20年)1月1日、呂49は呉を出港し、フィリピン東方沖に進出。4日、ルソン島西方沖に移動するよう命ぜられる。12日、イバ西北西55浬地点付近で多数の護衛がついた米護衛空母2、米戦艦3を発見。雷撃の結果アイダボ級戦艦1隻を撃沈したと報告したが、連合軍側に該当する艦船はない。2月1日、呉に到着[4]。 3月16日、呂49は呉を出港し、同日佐伯に到着。18日、佐伯を出港し南西諸島南東沖に進出[4]。同年3月25日、沖縄方面で状況を報告したのを最後に消息不明[1]。 アメリカ側記録では、26日午前、呂49は米第54任務部隊を発見。0932、米重巡洋艦ウィチタ(USS Wichita, CA-45)が右舷に潜望鏡を発見。呂49は魚雷を発射したが、ウィチタは右転舵によりこれを回避した。また、米軽巡洋艦セントルイス(USS St. Louis, CL-49)も魚雷の航跡を発見したが、命中しなかった。呂49は爆雷攻撃を受けるが、回避に成功して離脱した。それ以降、アメリカ側記録には呂49と思われる記録がなく、艦長の郷康夫大尉以下乗員79名全員行方不明(戦死認定)[5]。 4月15日、沖縄方面で亡失と認定され、5月25日に除籍された。 歴代艦長艤装員長
艦長脚注参考文献
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