国家政治保安部
国家政治保安部(こっかせいじほあんぶ)、正式名称ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委員部附属国家政治局(ロシア・ソビエトれんぽうしゃかいしゅぎきょうわこくないむじんみんいいんぶふぞくこっかせいじきょく、ロシア語: Государственное политическое управление、ラテン文字表記:Gosudarstvennoye politicheskoye upravlenie)は、ソビエト連邦のレーニンおよびスターリン政権下で、反政府的な運動・思想を弾圧した秘密警察。ロシア語での略称はゲーペーウー(ГПУ)、ラテン文字表記GPU)で世界的に知られる。 1923年に内務人民委員部から独立して合同国家政治保安部(ОГПУ、OGPU)に改組され、1934年に再び内務人民委員部に吸収され国家保安部(ГУГБ、GUGB)に改称された[1]。1941年に国家保安人民委員部(НКГБ,NKGB)が内務人民委員部から独立した。スターリン死後の1953年に廃止され、ソ連国家保安委員会(KGB)へ改組された。 沿革設立前身は1917年に設立されたチェーカーである。1922年2月6日にGPUに改名された。反革命分子・反動分子・反体制派の摘発・抹殺を目的としていた。 改組ゲーペーウー(ГПУ)は1923年7月、内務人民委員部(НКВД,NKVD)から独立し、合同国家政治保安部(ОГПУ、OGPU)に改組された[1]。1923年11月23日、ソ連人民委員会議附属OGPU、通称、統合国家政治局(とうごうこっかせいじきょく)または合同国家政治保安部に改組された[要出典]。 スターリンは、トロツキーやカーメネフ、ジノヴィエフなどの政敵たちや党内反対派を殺すためにGPUを用いた。また、GPUは圧制に抵抗する民衆や外国人を弾圧し、次々と刑場や強制収容所に送った。 1934年7月に内務人民委員部直轄の国家保安部(ГУГБ、GUGB)に改称された[1]。国家保安総局とも訳される[要出典]。1937年に全国に設置され、弾圧の対象者を拡大した。かくして密告網がソ連国内各地に張り巡らされ、国民は息苦しい生活を強いられることとなった。 1941年には、国家保安人民委員部(НКГБ,NKGB)が内務人民委員部から独立した。 廃止、KGBへGPUの廃止はスターリンの死後の1953年9月であった。しかし、フルシチョフ政権移行後もGPU関係者への処罰は手緩いものであり、残党は後にソ連国家保安委員会(KGB)として生き残った。 機構1934年1月1日時点での OGPU の機構。
階級
1943年2月、国家保安上級少佐の階級が廃止され、以下の階級が新設された。
歴代指導者GPU長官
OGPU長官
NKVD国家保安総局長
脚注注釈出典
関連項目 |
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