増田清 (建築家)
増田 清(ますだ きよし、1888年(明治21年)9月9日 - 1977年(昭和52年)2月9日)は、日本の建築家[1][2]。 主に大阪を拠点に活動したが、現存するものは少ない。 功績に対して知名度が低く「知られざる名建築家」[3]「戦前活躍しながら忘れられていた名建築家」[4]などと紹介されている。 略歴
作品増田は日本の初期鉄筋コンクリート構造(RC構造)建築普及に貢献した建築家である[4][7]。大阪を中心に京都・奈良・兵庫で、更に東京や広島・呉で仕事し、設計したすべての建築物がRC構造であった[4]。大きな特徴として、芸術・造形美よりも構造美・機能美、特に耐震を重視し極めて頑丈な建物を設計していることが挙げられる[4]。これは帝大建築学科で佐野利器に師事し多大な影響を受けたためと言われている[8]。1923年(大正12年)関東大震災が起こり建物の耐震と近代化への関心度が高まった時期に独立し[8]、そこから昭和初期にかけて多くの作品を手がけた。大大阪時代に小学校を16校設計しており[4]、「増田清なしには大阪の鉄筋コンクリート建築は語れない」[8]とまで言われている。 代表的作品で国の登録有形文化財である「三木楽器本店」は、2013年に関西大学によって耐震診断が行われ耐震補強の必要が無いと評価されている[7]。また頑丈なRC構造であったことから、大阪大空襲[7]や東京大空襲[9]、広島市への原子爆弾投下[8]で倒壊を免れたものがいくつもあることは特筆に値する。特に「広島市レストハウス」は爆心地から170mの近距離にありながら全壊を免れている[10]。ただし耐震に偏っておらず、RCで大きなアーチ空間を取り入れようとしたりアール・デコ様式を取り入れたりとデザインにも配慮している[4]。「東京女子医科大学病院一号館」(現存せず)は日本初の十字放射型病院建築として設計している[8]。
脚注
参考資料
関連項目 |
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