大御堂廃寺跡![]() 大御堂廃寺跡 伽藍 中央に講堂跡、左奥に僧房跡。大御堂廃寺跡(おおみどうはいじあと)は、鳥取県倉吉市駄経寺町にある古代寺院跡。元々の寺名は「久米寺」と推定される。国の史跡に指定され、出土遺物は鳥取県指定保護文化財に指定されている。 概要鳥取県中部、伯耆国府から東約5キロメートルの倉吉市街地に位置し、南側には古代山陰道が通ると推定される[1]。昭和期の工場造成で礎石が出土し、その後は工場敷地として推移したのち、1996-2000年度(平成8-12年度)に発掘調査が実施されている[2]。 伽藍は観世音寺式伽藍配置(川原寺式伽藍配置)で、金堂を西、塔を東、講堂・僧房を北に配し、回廊が金堂・塔を囲んで講堂左右に取り付く。7世紀中頃に建立された山陰地方を代表する最古級の古代寺院であり、大規模な僧房や上水道施設(木樋)が完備するという、大規模かつ整った寺院跡になる[3]。出土瓦に「久米寺」・「久寺」銘があり、当時の寺院名は「久米寺」であったと推定される。久米郡の郡名を負う郡の代表的寺院であり、三明寺古墳を築造した有力豪族が久米郡の郡司氏族になるとともに氏寺として営んだと推察される[2]。また、特に観世音寺式伽藍配置(川原寺式伽藍配置)の寺院は、畿内に設置されるほかには多賀城廃寺(宮城県多賀城市)・観世音寺(福岡県太宰府市)のように地方の境界領域に設置される傾向にあることが指摘されており、大御堂廃寺の場合にも新羅に対する境界領域とする意識が推測される[4]。 寺域跡は2001年(平成13年)に国の史跡に指定されている[1]。 なお、先述の出土した礎石は倉吉市立上灘小学校(倉吉市上灘町)で保管されていたが、2025年(令和7年)6月に大御堂廃寺跡へ返還されることになった[5]。 遺跡歴![]() 整備前のグラウンド利用当時(2019年)
遺構軒丸瓦 鳥取県立博物館展示。寺域は東西約135メートル・南北165メートル以上[1](推定約220メートル[3]:南辺は道路にかかり不明)で、東・西側は築地塀、北側は段をもって区画する[3]。寺域の東寄りにおいて金堂を西、塔を東、講堂・僧房を北に配する観世音寺式伽藍配置(川原寺式伽藍配置の簡略化)で、回廊が金堂・塔を囲んで講堂左右に取り付く[2]。遺構の詳細は次の通り。
寺域からの出土品としては、多量の瓦のほか、土器・木製品・金属製品などがあり、特に專仏・石造菩薩立像・銅製匙・銅製獣頭・仏具鋳型などの多様な仏教関係の遺物も認められる[1]。また出土品のうちには「久米寺」の墨書銘土器や「久寺」の墨書銘土器・施印土器があり、当時の寺名が推定される[2]。 瓦の型式は4段階に分けられ、第1段階(創建期)は7世紀第3四半世紀、第2段階(本格的整備期)は7世紀第4四半世紀、第3段階(改修期)は8世紀第1・2四半世紀、第4段階(改修期)は8世紀第3四半世紀とされる[2]。ただし伯耆国分寺とは瓦の共有関係がなく、別に寺格が保たれている点が注意される[2]。その後は11世紀頃に廃絶したと推定される[2]。 文化財国の史跡
鳥取県指定文化財
鳥取県指定保護文化財「大御堂廃寺跡出土遺物」の明細
関連施設
脚注
参考文献(記事執筆に使用した文献)
関連文献(記事執筆に使用していない関連文献)
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