宮崎県立延岡高等学校(みやざきけんりつ のべおかこうとうがっこう)は、宮崎県延岡市古城町三丁目に所在する県立高等学校。通称は「延高」(のべたか)。
概要
- 歴史
- 1873年(明治6年)旧延岡藩主内藤氏によって設立された「延岡社學」を源流とする。旧制・延岡中学校の開校した1899年(明治32年)を創立年としており、2014年(平成26年)に創立115周年を迎えた。
- 学区
- 宮崎県内全域(旧学区:延岡市中心部・南部)
- 設置課程・学科
- 全日制課程 2学科
- 普通科
- メディカル・サイエンス科(理数に関する学科)
- 校訓
- 「剛健・自治・信愛」- 1926年(大正15年)に制定。
- 校章
- 桜の花弁と「学問」を表す万年筆のペン先3本と「高」の文字を組み合わせたものとなっている。
- 校歌
- 1958年(昭和33年)制定。作詞は渡辺修三(旧制・延岡中学校卒業生)、作曲は近衛秀麿による。歌詞は3番まであり、各番に校名の「延岡」が登場する[1]。
- 校歌の他に「延高賛歌」がある。作詞は金井總欣、作曲は太田陽・太田洋・藤原愛子、編曲は岩切佳代子による。歌詞は2番まであり、校名は登場しない。
- 旧校歌
- 旧制・延岡中学校 - 作詞は工藤正勝による。歌詞は5番まであり、校名は歌詞中に登場しない[2]。
- 旧制・延岡高等女学校 - 作詞は北原白秋、作曲は山田耕筰による。歌詞は4番まであり、各番に校名の「延岡高女」が登場する[3]。
- 旧・恒富高等学校学生歌 - 作詞は甲斐芳一、作曲は柳田育秀による。歌詞は3番まであり、1番に校名の「恒富」、2番に校訓の「剛健・自治・信愛」が入っている[4]。
- 同窓会
- 「延友会(えんゆうかい)」と称している。
沿革
- 前史
- 旧制中学校(男子校)時代
- 1899年(明治32年)
- 4月1日 -「宮崎県立延岡中学校」(修業年限5年:現在の中1から高2に相当)が設置される。 初代校長は山崎庚午太郎。100名に入学を許可。
- 5月25日 - 開校式を挙行。
- 1926年(大正15年)10月8日 - 校訓「剛健・自治・信愛」を制定。
- 1927年(昭和2年)11月5日 - 創立25周年を記念して図書館が完成。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限が4年となる。
- 1944年(昭和19年)4月1日 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、中等学校令施行前(昭和16年・17年)に入学した生徒にも修業年限4年が適用される。
- 1945年(昭和20年)
- 4月1日 - 学校での授業が停止される。ただし勤労動員は継続される。
- 6月26日 - 空襲により校舎の大半を焼失。
- 7月28日 - 高千穂分教場を開設。
- 8月15日 - 終戦。
- 8月25日 - 田代分教場を開設。
- 9月 - 学校での授業が再開される。
- 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年に戻る(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施、新制中学校の発足)が行われる。
- 旧制中学校の募集を停止。
- 新制中学校を併設し(以下・併設中学校)、旧制中学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
- 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみ中学校であった。
- 旧制中学校3・4年修了者はそのまま在籍し、4・5年生となった(4年修了時点で卒業することもできた)。
- 1948年(昭和23年)
- 3月31日 - 学制改革(新制高等学校の発足)により、旧制中学校が廃止される。
- 4月1日 - 新制高等学校「宮崎県立延岡恒富高等学校・併設中学校」(男女共学)が設置される。
- 旧制・高等女学校時代
- 1901年(明治34年)4月1日 - 女兒教舎が「私立延岡女学校」に改称。
- 1903年(明治36年)3月 - 廃校となった亮天社跡に移転を完了。校地・校舎のすべてを継承。
- 1906年(明治39年)8月27日 -「私立延岡高等女学校」に改称。
- 1922年(大正11年)9月 - 寄宿舎が完成。
- 1929年(昭和4年)4月1日 - 県立移管により、「宮崎県立延岡高等女学校」に改称。
- 1943年(昭和18年)9月19日 - 延岡大水害のため校舎が浸水。
- 1944年(昭和19年)5月1日 - 4年生が日窒化学雷管工場に挺身隊として動員される。
- 1945年(昭和20年)
- 4月1日 - 学校での授業が停止される。ただし勤労動員は継続される。
- 6月26日 - 空襲により校舎の大半を焼失。
- 8月15日 - 終戦。
- 9月 - 学校での授業が再開される。
- 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年となる(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施、新制中学校の発足)が行われる。
- 高等女学校の募集を停止。
- 新制中学校を併設し(以下・併設中学校)、高等女学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
- 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみ中学校であった。
- 高等女学校3・4年修了者はそのまま在籍し、4・5年生となった(4年修了時点で卒業することもできた)。
- 1948年(昭和23年)
- 3月31日 - 学制改革(新制高等学校の発足)により、高等女学校が廃止される。
- 4月1日 - 新制高等学校「宮崎県立延岡岡富高等学校・併設中学校」(男女共学)が設置される。
- 1949年(昭和24年)4月1日 - 公立高校統合・再編により、宮崎県立延岡岡冨高等学校が廃止される。
- 新制高等学校
- 1948年(昭和23年)
- 4月1日 - 学制改革により、県立の旧制中等学校(延岡中学校・延岡高等女学校・延岡工業学校・延岡商業学校)が統合され新制高等学校2校が発足。
- 旧制中等学校卒業者(5年修了)を新制高校3年、旧制中等教育学校4年修了者を新制高校2年、併設中学校卒業者(3年修了)を新制高校1年生として収容。
- 旧4校の併設中学校を継承。併設中学校の在校生が1946年(昭和21年)に旧制中等学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
- 「宮崎県立延岡恒富高等学校」(恒富の読みは「つねとみ」)- 旧制・延岡中学校の校地・校舎に設置される(男女共学)。
- 旧制・延岡中学校生徒の半数、延岡高等女学校生徒の半数、延岡工業学校生徒全員を収容。
- 全日制普通課程・工業課程に加えて、定時制夜間部・通信教育部を設置。
- 「宮崎県立延岡岡富高等学校」(岡富の読みは「おかとみ」)- 旧制・延岡高等女学校の校地・校舎に設置される(男女共学)。
- 旧制・延岡中学校生徒の半数、延岡高等女学校生徒の半数、延岡商業学校生徒全員を収容。
- 全日制普通課程・商業課程に加えて、定時制昼間部を設置。
- 1949年(昭和24年)
- 3月31日 - 併設中学校を廃止。
- 4月1日 - 公立高校の再編により、上記2校が統合され「宮崎県立延岡恒富高等学校」となる。
- 1950年(昭和25年)4月1日 - 商業課程と工業課程が分離し、宮崎県立延岡向洋高等学校[5]として独立。定時制昼間部の募集を停止。被服科を新設。
- 1952年(昭和27年)3月31日 - 通信教育部を宮崎県立宮崎大宮高等学校に移管。
- 1958年(昭和33年)6月1日 - 校歌を制定。
- 1959年(昭和34年)4月1日 - 「宮崎県立延岡高等学校」(現校名)に改称。
- 1963年(昭和38年)2月 - 新設の宮崎県立延岡西高等学校の間で合同選抜を開始。
- 1967年(昭和42年)- 第二グラウンドが完成。
- 1969年(昭和44年)4月1日 - 定時制課程が分離し、宮崎県立延岡第二高等学校として独立。
- 1972年(昭和47年)9月 - 体育館が完成。
- 1977年(昭和52年)2月 - 新設の宮崎県立延岡東高等学校が合同選抜に加わる。
- 1992年(平成4年) - 家政科の募集を停止。
- 1995年(平成7年)4月1日 - 普通科理数コースを設置。
- 1996年(平成8年)3月 - 武道館が完成。
- 1998年(平成10年)3月 - 弓道場が完成。
- 2005年(平成17年)
- この年 - 宮崎県立延岡西高等学校・宮崎県立延岡東高等学校との合同選抜を廃止。
- 4月1日 - 理数科を設置。
- 2007年(平成19年)4月1日 - 女子制服を改訂。
- 2011年(平成23年)4月1日 - 理数科をメディカル・サイエンス科に改称。
- 2020年(令和2年)4月1日- 文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクール(開発型)に指定される。
部活動
著名な出身者
掲載は五十音順。
交通
- 最寄りの鉄道駅
- 最寄りのバス停
- 宮崎交通バス 「延岡高校前」バス停 - 延岡駅から三輪行きのバスに乗車。
- 最寄りの幹線道路
(基本的に日向・門川方面からの通学生は南延岡駅利用する。高千穂・五ヶ瀬・日之影の生徒は寮、黒岩・北方・北川・土々呂の生徒は自転車通学、バス及び保護者の送迎が多い。)
周辺
脚注
関連項目
外部リンク