寒天
寒天(かんてん)は、テングサ(天草)、オゴノリなどの紅藻類の粘液質を固めたもの(トコロテン)を凍結・乾燥させたものである。英語では、マレー語からの借用によりagar-agar、または短縮してagar([ˈeɪɡɑːr]、[ˈɑːɡər])と呼ぶ。 テングサ等の原材料を冷水に浸し沸騰させて炭水化物鎖を溶かし、他の物質を加えて漉し、38℃以下に冷ますことによって固める。寒天はゼラチンよりも低い、1%以下の濃度でもゲル化が起こる。一度固まった寒天ゲルは85℃以上にならないと溶けないため、温度変化に強く口の中でとろけることがない[1]。 日本国内の流通量では2000年(平成12年)以降、工業的に製造された輸入品の数量が従来製法を含む国産品を上回っている。食用のゲル(ゼリー)の材料という点では、牛や豚から作られるゼラチンに似ているが、化学的には異なる物質である。 歴史江戸時代前期、山城国紀伊郡伏見御駕籠町(現:京都府京都市伏見区御駕籠町)において旅館「美濃屋」の主人・美濃太郎左衛門[2]が、島津大隅守が滞在した折に戸外へ捨てたトコロテンが凍結し、日中に融けたあと日を経て乾物状になったものを発見した。試しに溶解してみたところ、従来のトコロテンよりも美しく海藻臭さもなかった。これを黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると奨励され、その際に隠元によって「寒晒し心太(ところてん)」と名付けられたが、それが時代の経過と共に短く略されていき、現代では寒天という略称の方が定着している[3][4]。 以上を寒天の起源とする伝承は複数の書物に見られるが、具体的な時期は諸説ありはっきりとしない。尾崎直臣は、島津大隅守とは島津光久を指し、『島津国史』の記載から1657年(明暦3年)旧暦10月から12月にかけての江戸参勤を起源とするのが最も有力だと考察している[5]が、1645年-1656年に成立したと推定される[6]金森宗和の『宗和献立』に「こごりところてん」、虎屋の1651年(慶安4年)の記録に「氷ところてん」という記述があることから、起源はさらに遡る可能性がある[7]。 その後は100年余り伏見で独占的に生産されていた寒天だが、対明貿易の有力な輸出品となるなど商品価値が高まると、1781年(安永10年)に美濃屋で寒天製造法を学んだ摂津国島上郡原村字城山(現:大阪府高槻市原)の宮田半平が、1787年か1788年(天明7、8年)頃には製法を改良して摂津地方に寒天製造を広める[8][9]。1798年(寛政10年)には寒暖差の大きい島上郡・島下郡・能勢郡の18ヶ村による北摂三郡寒天株仲間が結成されており、農閑期の余業として寒天製造が行われた。寒天製造は1830年(天保元年)頃に隣接する丹波国へも伝播し、丹波国へ行商に来ていた信濃国諏訪郡穴山村(現:長野県茅野市玉川)の行商人・小林粂左衛門[10]が1841年~1842年(天保12~13年)頃に諏訪地方へ寒天製造を広め[11]、角寒天として定着した。同地での角寒天づくりは21世紀も続いている[12]。 当初は水で洗ってそのまま食することが多かったと考えられ、1671年(寛文11年)刊の『料理献立集』に寒天を使用した精進刺身が載っている。菓子材料としては、1707年(宝永4年)の『御菓子之畫図』に寒天を使用した棹菓子が見られる[13][14]。寒天を用いた現在の煉羊羹の製法が確立したのは1658年(明暦4年)と伏見京町の駿河屋では伝えられているが、その製法が全国に普及するのは、上記のような摂津寒天[8]の登場で、寒天の生産量が飛躍的に拡大し全国へと流通するようになる18世紀の後半のことであると考えられる。 1881年(明治14年)、ファニー・ヘッセとロベルト・コッホが寒天培地(かんてんばいち)による細菌培養法を開発し、寒天の国際的需要が増えた。このため、第二次大戦前は寒天が日本の重要な輸出品であったが、第二次世界大戦中は戦略的意味合いから輸出を禁止した。 寒天の供給を絶たれた諸外国は自力による寒天製造を試み、自然に頼らない工業的な寒天製造法を開発した。こうして作られたのが粉末寒天である。第二次大戦後には日本でも工業的な製造法の研究が始まり、1970年(昭和45年)頃には製造会社が35社にまで達した。しかし、2004年(平成16年)には5社ほどにまで激減した。 日本では現在、上記の長野県茅野市のほか、岐阜県恵那市(旧山岡町)で細寒天が、大阪府高槻市で和菓子用の糸寒天がつくられている[9]。屋外で寒天を干す場合、冬季に晴天が多く且つ1日の寒暖差が大きいことが、良質な寒天産地の条件である[15]。 諸外国ではモロッコ、ポルトガル、スペイン、チリやアルゼンチンで寒天が製造されている。 ![]() 製法従来の製法![]() ![]() 寒天は12月から翌年2月の厳寒期に製造される。
工業的な製法工業的には均質な粉末寒天が製造される。
成分ほとんどは食物繊維(アガロースやアガロペクチンなどの多糖類)からできており、ヒトの消化酵素のみでは分解されない。ただし、いくらかは、胃酸により分解しアガロオリゴ糖となり吸収され、生理的な作用を持つことが近年研究されている。 寒天の凝固作用は多糖類に由来する。このため、パイナップルやキウイフルーツなどの果物に含まれるプロテアーゼ(タンパク質分解酵素)でも凝固が阻害されない、よってゼラチン(タンパク質)では凝固できないこれらの食材の擬似ゼリーとして利用されている。 種類
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![]() 用途食品菓子の材料に用いられる他、ほとんどカロリーがないこと、腸において油や糖分の吸収を妨げることから、ダイエット食品として、また、前述のアガロオリゴ糖に着目した健康食品としても注目されている。 立方体状に裁断してみつ豆の中に入れるほか、牛乳に粉末寒天を添加して固形にした加工食品は牛乳寒[17]あるいは牛乳羹[18]と呼ばれる。これは中華料理の杏仁豆腐に好んで利用される。石川県の加賀料理「べろべろ」(富山県では「鼈甲」)のように、ショウガの効いただし汁に溶き卵を加えて固めた料理がある。 ゲル化剤にも使われ、卵を使わないプリン(cream caramel )にも使われる。 米飯に寒天を添加して摂取したところ米飯のみと比較して食後の最大血糖値が低下し、GI値も減少が認められた[19]。
科学![]() 寒天は様々な水溶性の物質を閉じ込めることで固体のように扱える利点があり、多くの場面で利用される。 培養液に寒天を加えることで、液体培地を固形培地にすることが出来、植物の組織培養や微生物培養の際、培地の固形化に用いられている。寒天で固めた培地は寒天培地と呼ばれ、ほとんど培地の代名詞のような存在である。 他に、ヴァルター・フォークトはイモリの卵の細部に染色するために、色素液を寒天で固め、それをごく小さく切って卵表面に貼り付ける局所生体染色法という方法を開発した。植物ホルモンのオーキシンの研究でも、芽の部分を切り取って寒天にのせ、この寒天を使って成長を調べた例がある。 また特に純度の高いものは核酸の電気泳動(アガロースゲル電気泳動)にも使用される。 歯科医療齲蝕などで損傷した歯の補綴物を制作する過程では、歯を型取りし、歯並びを精密に再現した石膏模型を作成する。型取りに用いる材料(印象材)は弾力があり細部が再現できるなどの要件を満たす必要があり、寒天印象材はそのひとつである。ただし寒天は寸法安定性が悪く、水分を吸収すれば膨張し、長時間空気中に放置すれば乾燥して収縮してしまう。よって、寒天印象材からは素早く石膏模型を製作しなければならない。 その他特撮の技法として、ミニチュア撮影での海面の表現に寒天を用いている[21]。 その他茅野市の民謡、労働歌、無形民俗文化財『天屋節[22]』が2011年2月12日放送の食彩の王国で紹介された[23]。 脚注出典
関連項目
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