山口組外伝 九州進攻作戦
『山口組外伝 九州進攻作戦』(やまぐちぐみがいでん きゅうしゅうしんこうさくせん)は、1974年の日本映画。主演:菅原文太、監督:山下耕作。東映京都撮影所製作、東映配給。併映『殺人拳2』(千葉真一主演、小沢茂弘監督)。アメリカ公開時のタイトルは『The Tattooed Hitman』で『ヒドゥン』や『エルム街の悪夢2 フレディの復讐』を監督したジャック・ショルダーが脚本とポスターデザインを担当した。 概要1973年の『仁義なき戦い』の大ヒット以降、東映は実録ヤクザ路線と銘打ち[2]、各地の暴力団抗争をモデルとした映画を製作した[3]。特に同年『山口組三代目』が大ヒットし、山口組の全国進攻は実録路線の元ネタとしては最適であったため[4]、これを題材とする映画を次々製作したが、このうち山口組の急先鋒として西日本を暴れまわった伝説の男・夜桜銀次(本名:平岡国人)をモデルとしてその一生を描いたものが本作である[5]。 あらすじ全身に夜桜の刺青をした実在のやくざ・夜桜銀次が関わった抗争事件、別府抗争、明友会事件、博多事件を軸に銀次の生涯を描く[6][7]。 出演
スタッフ
製作企画・脚本原作は飯干晃一となっているが、飯干の原作本を映画化したのではなく、飯干が夜桜銀次を週刊誌に取り上げた記事をプロデューサーの日下部五朗が読み「夜桜銀次を主人公にしたら面白い」と映画化したもの[8]。ただ飯干には原作料を支払った[9]。当時はまだ夜桜銀次の名前は極道社会でもあまり知られていなかったという[8]。役名は微妙に書き換えられているが、内容はほぼ史実に基づく[5]。 『山口組外伝 九州進攻作戦』というタイトルについて、田岡一雄山口組組長から「夜桜銀次の事件は山口組とは関係ない事件だから、組の名は使ってほしくない」とクレームを受けた[9][10]。しかし、岡田茂東映社長は「映画の題名は、人間でいえば顔や。顔は変えられん。顔が悪いとお客は来てくれん。山口組という名が題名に入ってるから、みんな興味をそそられて来てくれるんやぜ」と話し、徹底した商売人の姿勢を見せてタイトル変更をしなかった[10]。山口組という名をタイトルに入れるため、田岡満が社長を務めるジャパン・トレードに協力費500万円が支払われた[11]。しかし映画内の山口組は兵頭組という名前に変えた[10]。このような話は全部宣伝を狙った東映の戦略で、実は最初から田岡満が企画に参加していて、ネタを探しているとき、夜桜銀次が出て来て、映画化しようとなったという説もある[9]。 興行成績タイトルに山口組が入り『山口組三代目』の続編的な臭いを含んだこと[12]、制作途上から数々の話題を呼んだこと[12]、併映『殺人拳2』も空手ブームに乗って強く大ヒットした[12]。 逸話
同時上映『殺人拳2』 山口組の全国進攻を描いた作品「仁義なき戦いシリーズ」の第三部『仁義なき戦い 代理戦争』の作中、山口組(映画では明石組)の全国進攻を映像とテロップで駆け足で説明するシーンがあり[17]、「昭和37年5月九州博多事件」としてテロップで流れるものを映画化したのが本作[7][17]。このシーンで銃殺されるヤクザが夜桜銀次[17]。この他「昭和36年6月 義友会事件」とテロップで流れるのは明友会事件のことで、本作にも双竜会として登場し『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』(1975年)や『実録外伝 大阪電撃作戦』(1976年)、『やくざ戦争 日本の首領』(1977年)もこの明友会事件をモデルとしている。また「昭和36年7月 石川組組長刺殺事件」は、奈良県大和郡山市で起きた喜多久一刺殺事件で、殺害した柳川組は、先の『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』『実録外伝 大阪電撃作戦』の両映画にもモデルとして登場する[17]。東映が山口組を題材にした映画が量産できたのは山口組・田岡一雄組長の息子・田岡満をスタッフに入れていたためで[18]、『山口組三代目』(1973年)を製作する際に、岡田茂東映社長(当時)が田岡一雄に「田岡満さんをプロデューサーにして映画を一緒に作らせてほしい」と申し出ていた[19]。田岡一雄は息子の田岡満の仕事は何でもOKだったため[20]、田岡一雄ではなく、田岡満がすべての脚本をチェックすることで、映画に取り上げられた組関係者に、協力はしても反対はするなと指示を出していたといわれる[20][21][22]。 関連映画
脚注
外部リンク |
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