岩﨑哲也
岩﨑 哲也(いわさき てつや、1982年10月13日 - )は、埼玉県深谷市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。右投右打。 経歴高校・大学時代埼玉県立行田工業高等学校時代は、春日部共栄高等学校とともに夏の埼玉大会優勝候補だったが、埼玉栄高等学校と初戦で対戦して惜敗。その後、国士舘大学では小島紳二郎が同期のエースで4年春の2部開幕戦で先発し初勝利を挙げたが主にリリーフであった。三菱重工横浜硬式野球クラブに入部した。 三菱重工時代2005年の第76回都市対抗野球大会神奈川2次予選で好投し、三菱ふそう川崎の補強選手として出場した。5試合中4試合に登板して三菱ふそう川崎の優勝に大きく貢献、新人賞に当たる若獅子賞を受賞した。2006年は東芝に補強されて第77回都市対抗野球大会に出場。補強選手ながら開幕戦の先発投手を任された。 同年の大学・社会人ドラフトで西武ライオンズから5巡目指名を受けて入団。背番号35は、東芝に補強された時に着けていた番号でもある。 西武時代2007年は新人として唯一の開幕一軍に登録された[注 1]。開幕戦で西口文也を救援し、1イニングを無失点に抑えたが、翌日は9回に登板して2/3回6失点とプロの洗礼を受けた。同年6月14日に中継ぎでプロ初勝利を達成。7月4日の対北海道日本ハムファイターズ戦では小野寺力の不調で抑え投手が不在になり、それまでチーム最多ホールドを挙げていた岩﨑が登板、プロ初セーブを挙げた。序盤こそ不安定だったが、オールスター以降の防御率は1点台と大きく安定した。右のセットアッパーとして主に7回を任され、最終的に新人ながらチームトップの55試合に登板、防御率2.82・3勝1敗2セーブ、チーム2位となる16ホールドポイントの好成績を収めた。 2008年はキャンプで制球難を指摘されて二軍スタート。4月9日に昇格するが被安打が多く、降格と再昇格を繰り返した。7月20日の対千葉ロッテマリーンズ戦では打者9人に対して7安打5失点と打ち込まれ、8月末に降格してシーズンを終えた。8月18日の対オリックス・バファローズ戦では1球三振を記録した[注 2]。 2009年は6月まで無失点投球を続け、2年ぶりのホールドを挙げた。一時は勝ち試合で登板し、7月にはリーグトップの13試合に登板して、チーム3位の9ホールドを記録した。しかし26回で28被安打と不安定な内容の投球が続き、8月10日に降格した。 2010年から背番号が25に変更されたが、プロ入り最少となる1試合の登板に終わった。 2011年は、二軍で22試合に登板し防御率1.96を記録したものの、一軍ではわずか2試合の登板に終わり、10月9日、戦力外通告を受けた[1]。12月2日自由契約公示された。 西武退団後2012年2月にロングビーチ・アーマダに所属しアリゾナ・ウィンターリーグに参加。同シーズンよりプロ野球独立リーグ、ノース・アメリカン・リーグのエディンバーグ・ロードランナーズに移籍。22試合(うち先発1試合)で5勝0敗、防御率2.20の好成績を残した。 2013年4月、リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルのキンタナロー・タイガースと契約した。その後帰国し、7月からは日本国内の独立リーグ・四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツと契約した[2]。シーズン後は12球団合同トライアウトを受験し、愛媛で同僚の金森敬之らとともに千葉ロッテマリーンズの入団テストも受けた。しかし、金森は合格したものの岩﨑の獲得は見送られ[3]、同年限りで引退した[4]。 現役引退後引退後の2015年1月30日に学生野球資格を回復し、学生・生徒への指導が可能になった[5]。 同年、G.G.佐藤の父親が社長を務める株式会社トラバースに入社し、同社の軟式野球部でプレー[6]。 その後退社し、2017年12月1日に母校である国士舘大学硬式野球部のコーチ就任が発表された[7][8]。2020年をもって退任[9]。 2025年1月20日、四国アイランドリーグplusの徳島インディゴソックスで、ヘッドコーチ兼アカデミーコーチに就任することが発表された[10]。 選手としての特徴始動からリリースの間に後ろを振り返る変則的なサイドスローフォームで投げる[11]。 詳細情報年度別投手成績
年度別守備成績
記録
独立リーグでの投手成績
背番号
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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