川崎市都市モノレール計画川崎市都市モノレール計画(かわさきしとしモノレールけいかく)は、川崎市が1970年代初めから1980年代初めに構想した、市北西部、現在の多摩区・高津区・麻生区・宮前区にあたる地域の都市モノレール路線建設計画である。 仮称はタウンライナー[1]・多摩連環線[2]・川崎市高津区多摩区循環モノレール[3]など。 概要川崎市が、市北西部の鉄道空白地域を解消するために、川崎縦貫高速鉄道とセットで計画したモノレール路線である。 区間は溝の口駅 - 宮前平駅 - 登戸駅 - 新百合ヶ丘駅 - 溝の口駅を8の字に循環する約38km。 しかし導入空間(道路幅)と、経営主体の設立という2つの課題を解決することができず、建設に至らなかった。 路線データ経緯初期の構想出典:[1] 1973年、川崎市は「川崎市における交通輸送機関の最適ネットワーク形成のための調査報告書」を作成した。 この中で、新百合ヶ丘 - 川崎駅 - 臨海部を循環する川崎縦貫高速鉄道とともに、縦貫高速鉄道でカバーしきれない鉄道空白地域を埋めるために、高津区・多摩区(現在の麻生区・宮前区を含む)に2つの環状モノレール路線が計画されていた。 1976年に作成された「昭和50年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書」では、具体的なルート案が検討され、溝の口 - 宮前平 - 溝の口を16駅で結ぶ環状線と、登戸 - 新百合ヶ丘 - 登戸を20駅で結ぶ環状線の「ダブルO - 1型」案など、複数のルート案が示された。 都市モノレール等調査1976年度、1977年度に川崎市が都市モノレール等調査を行った[2]。 これは都市モノレールの整備の促進に関する法律に基づくモノレール、いわゆる都市モノレールを検討する自治体が、建設省の補助を受けて基礎調査を行うものであった。 1976年度の調査で、ルートは溝の口 - 宮前平 - 登戸 - 新百合ヶ丘 - 溝の口を36駅で結ぶ、約38kmの「8の字」案に絞り込まれた。 また施設計画(駅の透視図)・運転計画も作成された。 1977年度の調査では、建設費・経営収支の算出が行われた[1]。 調査結果は「広幅員の道路がないというところが泣き所[2]」という厳しいものであったが、川崎市はあきらめずに次年度以降も単独調査(建設省の補助を受けない調査)を継続することにした。 単独調査とその後1978年には、沿線の多摩区・高津区で2、3年間でアセスメントを実施すると報じられた[4]。 1980年度、1981年度には川崎市が都市モノレール計画関連基礎調査を実施した[5]。 1980年度の調査では車両デザイン案、駅の俯瞰図、「タウンライナー」という名称案が示された[1]。 1981年度の調査では、新百合ヶ丘 - 溝の口の区間を先行して部分開業する計画に変更された[1]。 1981年、川崎市が設置した交通に関する研究会が、川崎縦貫高速鉄道とともに本モノレール路線の必要性を訴えている[6]。 しかし1982年度以降は調査は行われなかった。 都市モノレール計画の中止により、川崎縦貫高速鉄道は鉄道空白地域を少しでも埋めるようにルート変更された。 その後、川崎縦貫高速鉄道の計画も中止となり、川崎市北西部には大きな鉄道空白地域が残ることになった。 駅一覧1976年度の調査による[1]。 溝の口を始点として、宮前平、登戸、新百合ヶ丘まで進んだ後、自線と交差して溝の口に戻ることになっていた。 車両基地を麻生区南部、電留基地を宮前区南部に設置する計画であった[5]。
脚注
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