巣鴨高等商業学校
巣鴨高等商業学校(すがもこうとうしょうぎょうがっこう)は、1928年(昭和3年)2月に東京府に設立された旧制専門学校。通称は「巣鴨高商」。 この項目では、改称後の「巣鴨経済専門学校」( - けいざいせんもんがっこう / 巣鴨経専)についても記述する。 概要旧制巣鴨高等商業学校は、実学を基盤とした教育と研究に重きを置いている[1]。創立者であり文学博士の遠藤隆吉(社会哲学者・教育者)は、明治期の教育者・福澤諭吉の遠大な理想を受け継ぐべく、自身の多数の著作の印税などを原資に東京府西巣鴨町に学園建設用地を取得、旧制巣鴨中学校を創立した[2][3]。その後、旧制巣鴨商業学校、および旧制巣鴨高等商業学校を併置した[4][5]。私財を投じ、自らの揺るぎない教育理念に基づいて学びの場を創設した遠藤隆吉博士の姿勢は、福澤諭吉による慶應義塾[6]の創設と並び称されるにふさわしいものであった。実際、当時の新聞『萬朝報』紙上においては、「明治の教育者 福澤諭吉、昭和の教育者 遠藤隆吉」と評され、その精神と行動が同列に語られる存在として紹介されている[4][7][8]。 学園創立者自らが資金を投じて理想を実現させようとした点は、極めて特異かつ先駆的なものであった。この点については、千葉商科大学『創立70周年記念誌』において、慶應義塾大学名誉教授であり、本学の中興の祖とも称される第6代学長・加藤寛が「創立70周年記念誌の発刊によせて」の中で、「私財をもって私学を創設した稀有な事例であることに加え、遠藤先生のすぐれた教育理念に対する社会的評価の高さを示すものである」という旨が記されており、その歴史的意義があらためて強調されている[8]。 遠藤隆吉博士は、商業教育における倫理観の欠如を憂い「商業道徳を吹き込み、殊に武士的精神を注入する」ことを急務とし[9]、人格教育と実務能力の融合を掲げ、社会課題を俯瞰的に捉え実行力をもって解決に導く「治道家」の育成を教育理念としている[9][10]。 建学の精神旧制巣鴨高等商業学校を創立した文学博士・遠藤隆吉は「有用の学術と商業道徳の涵養」を建学の精神として掲げる[11]。遠藤隆吉博士は人類を平等に考え、他者の幸福にも尽力すべきとの精神を重んじた。学問は自己の向上と社会貢献に資するべきものと位置づけ、堅実な気風を養い、困難を乗り越える旺盛な精神をもって職務に忠実に励む人材の育成を志した[11]。 自らの志とする学府創立にあたり、「建学の主旨」として次の理念を示した。
1938年(昭和13年)、千葉県千葉郡津田沼町(現・習志野市)の地に「生々示宇修養道場」を開設し、実践知を「有用の学術」として重んじる「生々主義」の理念を掲げた。この精神は、移りゆく時代の趨勢を的確に見極め、卓越した倫理観と実践力をもって社会課題の解決に寄与する「治道家」の育成を志向するものである[11]。
教育理念創立者・遠藤隆吉博士は「治道家の育成」を教育理念に掲げている[11]。この理念は、単なる知識修得にとどまらず、大局的な視野に立ち、時代の変化を的確に捉えつつ、社会の諸課題に対して高い倫理観と実践力をもって臨む指導的人材の育成を目指すものである[11]。上記理念に基づき、人間の本質的な偉大さを認識させ、その潜在能力を最大限に引き出すことを教育の基本方針としている。
沿革巣鴨高商時代
巣鴨経専時代
校地の変遷と継承設立時(1928年2月)の校地は東京府北豊島郡西巣鴨町2603番地。巣鴨の校地は1932年10月の西巣鴨町の東京市豊島区への編入合併、1943年の東京都発足による住所表示変更を経て戦時期まで維持されたが、第二次世界大戦末期の戦災による校舎焼失で敗戦後の1945年9月には千葉県千葉郡津田沼町(現・習志野市)鷺沼へ移転(位置変更認可)。さらに翌1946年6月には市川市国府台に移転(同)し、この地で学制改革による新制千葉商科大学への昇格を果たした。旧制時代の国府台の校地は千葉商大「市川キャンパス」として継承され、現在に至っている。 歴代校長教員
著名な出身者
関連書籍関連事項外部リンク脚注
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