広島逓信病院旧外来棟被爆資料室
広島逓信病院旧外来棟被爆資料室(ひろしまていしんびょういんきゅうがいらいとうひばくしりょうしつ)は、広島県広島市中区白島にある展示館。現存する逓信建築及び被爆建物の一つ。現在は広島市が管理する。 概要表記のとおり元々は広島逓信病院(広島はくしま病院の前身)の外来棟。鉄筋コンクリート構造2階建。1935年竣工、1945年広島市への原子爆弾投下により被災した建物を、1995年本館新築に伴い南側の棟を資料室として保全した。それまでは郵政省のち民営化に伴い日本郵政が管理していたが、恒久的に保存していくには行政による管理が好ましいとして、2018年に広島市に寄贈された[1]。 入場は無料。通常は施錠されており、見学の際は事前に「広島市平和推進課」への連絡が必要となる(広島はくしま病院および日本郵政中国支社では受け付けていない)。ただし原爆忌である8月6日のみ開放されている。 原爆投下後の救護活動の展示を充実させるため、2024年11月に向けてリニューアルが予定されており、広島平和記念資料館(原爆資料館)の付属展示施設となる予定である[2]。 建物設計は山田守(逓信省営繕課)、施工は坂本組[4][5]。当時逓信省はモダニズム建築を推進していた時期で、ヨーロッパ視察旅行帰りの山田が起用された[6]。山田は広島の他に東京逓信病院・大阪逓信病院と3つの逓信病院を設計しているが、広島が山田にとって最初の病院建築として手がけたもので日本初のモダニズム建築を採用した病院として造られた[4][7]。曰く、広島が習作・東京が集大成・大阪が東京のコピーとして設計したという[4]。 竣工当時の特徴は以下のとおり。
なお2016年現在で逓信建築かつ被爆建物は、広島ではこことNTT西日本十日市ビル1棟の2つのみ。 現在は玄関棟が取り壊され外来棟のみが竣工当時の姿に復旧された形で残されている[12][6]。 内部には、当時の手術室が再現されており、別の部屋には被爆当時の応急処置を行った医師や看護師の奮闘の写真、爆風で折れ曲がった窓枠などを展示している[8]。 歴史
略歴
被爆
被爆直前の状況は以下のとおり。当時県から救護病院指定されていた[13]。
また、空襲対策もとられた。主なものとして、
当時、数名の外来患者が待ち合わせており、看護婦は診察の準備をしていた[15]。そこへ、被爆。大きな窓が災いし爆風でガラスは吹き飛び窓枠は変形するものの、鉄筋コンクリート構造のため倒壊は免れた[8][7]。薬品倉庫から黒煙が上がり、周辺各所で発生した火災により延焼に巻き込まれる可能性はあったが、職員による懸命な消火により、1階と地下室は全焼から免れ、2階は歯科診察室のみ延焼を免れ、最低限の医療器具も保全することができた[8][15]。 医師や看護師など職員48人のうち37人に死傷者が出た[9]。病院内にいたもので即死者はおらず、職員死亡者5人のうち医師2人・薬剤師1人・看護婦1人・寮母1人、うち3人は通勤途中の被曝が原因で死亡している[16]。自宅で被爆した蜂谷は前身にガラス傷を負い血だるまとなったものの、すぐに病院へ来ている[15]。 爆心地から2km以内で残ったのは広島赤十字病院とここだけになってしまったため、共に市街中心部における医療拠点の一つとなった[7]。同日午後に入り、市内の火災により遠回りしたため来院に手間取った勝部玄外科医長が到着し蜂谷の手術を開始し、時を前後して負傷者が殺到し病院内を埋め尽くした[17]。動けるものはすぐさま応急処置に入り昼夜を問わず続けられた[8]。数日後には大阪や松山の逓信病院から、また市外の女学生が勤労奉仕団として応援に駆けつけた[18]。当日に収容された重傷者だけでも250人以上にのぼり、1/3が軍人(南西方向の広島城が陸軍の中心施設だった)[7][17]。当時ここで処置を受けた人物の一人に沼田鈴子がいる。 蜂谷が復帰したのは8月11日、その後白血球の減少に気づき、蜂谷が立案した原爆症に対する注意が職員に提示されたのが同年8月26日[17]のことだった。 ちなみに蜂谷は後に、原爆投下直後の56日間の記録を『ヒロシマ日記』として出版、世界18カ国で翻訳された。また、現在広島における著名な被爆樹木である被爆アオギリは元々逓信局敷地内にありこの付近に生育していた。 交通アクセス
脚注
参考資料
関連項目
外部リンク
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