中国軍管区司令部跡
中国軍管区司令部跡(ちゅうごくぐんかんくしれいぶあと)は、広島県広島市中区基町にある、大日本帝国陸軍中国軍管区司令部防空作戦室の遺構。 旧陸軍の防空作戦室は全国に6ヶ所あったことはわかっており[注 1]、ここは現存唯一のものになる[2]。広島市への原子爆弾投下の第一報を外電した場所であり、現存する被爆建物の一つ。国史跡広島城址公園内にあり本丸を囲む内堀の石垣付近に位置し、広島護国神社境内隣にある。半地下式鉄筋コンクリート平屋造。入り口には広島市により原爆被災説明板が設置されている。 広島城本丸は、復元された天守閣建物のみ広島市所有、本丸上段は文部科学省所有行政財産、本丸下段のうち神社部分のみ宗教法人広島護国神社所有、残りが財務省所有普通財産になる[3][4]。本丸下段にある中国軍管区司令部跡は、財務省が所有し広島市に無償貸与され、管理運営は公益財団法人広島市みどり生きもの協会が行う[5][6][4]。 かつては平和学習目的のみ屋内見学が許可され、その場合は事前に協会に予約する必要があった[6]。2017年から安全性が確保できないという理由で内部見学禁止処置がとられている[2][5][7]。 背景広島城は1871年(明治6年)広島鎮台のち第5師団、1894年(明治27年)広島大本営が置かれるなど国内での主要軍事拠点として機能しており、天守を取り囲むように様々な陸軍関係の建物が建設された[8][9]。太平洋戦争末期になると陸軍は本土決戦を想定して組織を再編する[2]。なお一般人の立ち入りは禁止されていた[10]。 防空作戦室の建設時期は1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)初めごろとされ、突貫工事で建てられたとされている[6][11]。その後1945年6月22日中部軍管区から分離する形で中国軍管区が発足する[12]。 1945年時点での建物配置と同年7月25日時点の空中写真。1号庁舎には参謀部、2号庁舎には管理部・兵務部、3号庁舎には医務室などが置かれていた[13]。 防空作戦の本来の任務は、中国地方5県の上空を飛ぶ敵味方の飛行機情報を一元的に集め、司令官が高射砲隊や航空隊へ指揮命令を行うともに、防空警報(空襲警報・警戒警報)を発令・解除することであった[12][14]。ただ大戦末期に日本本土空襲が激しくなると、敵機に対する防空警報を発令・解除することが主な任務[注 2]となった[12]。その敵機を監視する防空監視哨は、陸軍が設置し軍人によって運営されたものと民間の警防団が管理していたものがあり、24時間体制で監視し軍用通信の有線電話で防空作戦室へ情報を送っていた[12]。監視哨は1945年3月時点で中国5県で100ヶ所以上、県内に33ヶ所あった[12]。 防空作戦室では軍人・軍属の他、学徒通信隊(学徒動員)として比治山高等女学校(現比治山女子高等学校)3年生、またその卒業生約15名が司令部参謀部通信班所属の軍属としても勤務していた[12][8][15][注 3]。 一般人立入禁止の軍重要施設に女学生が用いられたのは、当時比治山高等女学校は偕行社附属学校で生徒の多くが高級軍人の子女であったためとされる[9][17]。彼女たちは1945年5月に50人が、同年8月には90人が動員された[10]。1班30人の3班編成で、日勤8時-17時/夜勤17時-8時/夜勤明け全休、の3交代昼夜兼行で勤務した[10][14][17]。 施設防空作戦室の整備計画、図面や記録資料はほぼ破棄されており現存していない[18][5][19]。現在判っている情報は、当時勤務していたものの証言や後の発掘調査から構築されている。 立地
防空作戦室は広島城本丸の南端、内堀の石垣沿いに置かれた[14]。敵航空機から発見されにくいように半地下構造とした[6][20]。上に土が盛られ木々が数本植えてあり、上空から見るとそこに建物があるとわからなかった[20][6]。これは現在でも同じ状況であり、広島護国神社側から見てもその全体像はわからない。 配置広島護国神社に隣接する入り口から入ると、内部は4つの部屋からなる[2]。入り口側(西側)から、情報室、通信室、指揮連絡室、防空作戦室(作戦司令室)、と呼ばれた[2][21]。
他、これらの北側に前室(あるいは保管室)と呼ばれた付帯建物がある[2]。2020年現在完全閉鎖され一切入ることはできない[2]。
また、通信室の指揮連絡室の境目北側に煙突がある。ただ調査では煙突につながる穴が確認されていない。そのため現在慰霊碑がある位置、司令部跡の床面の更に下に何らかの空間があり発電あるいは蓄電機が置かれていた可能性があると推定されている[2][11]。 構造
鉄筋コンクリート造半地下式1階建[19]。延床面積208m2[6][19]。大戦末期は金属類回収令が施行されるなど鋼材が不足していた時期であったが、軍の重要施設であったため鉄筋が用いられたと推定されている[28]。実測による間取りは以下の通り。 天井高は入り口付近で約1.8m[30]。ただし防空作戦室の床のみ他と比べて30cmほど深い[31]。入り口は2つあったが[32]、防空作戦室側の入り口は塞がれて現在は1つのみ。小窓は10ヶ所ほどある[32]。 コンクリート強度は不明[33]。骨材は最大寸法40mm程度で川砂利・川砂が用いられたと考えられ、比較的硬練のものを突き固めて製造していると考えられている[33]。 天井の部材厚は75cm[33]。また天井には鉄筋だけでなく鉄骨も配置されていると考えられている[29]。つまり天井は被弾する可能性が高いため強固に作られたと考えられている[33]。土被り厚は不明だが、被弾緩衝ではなく目隠しの意味合いが強かったと考えられている[33]。設計強度は推定で100kg爆弾が直撃しても貫通できない程度のものであったと推定されている[33]。 壁には鉄筋が入っている。壁厚は入り口付近が45cmであるため、他の壁も40cm強であると推定されている[29]。壁が天井と比べて薄いのは、被弾を考慮していなかったためと推定されている[33]。ただし南の堀側の壁のみ無筋であり、上部から下部に向かって部材厚が太くなっている[29]。そのため、内堀石垣に隣接する南側壁のみ擁壁構造とし更に鋼材を節約して無筋としたと推定されている[29]。 床もコンクリート製でモルタル仕上げ[30]。また電気・通信系の配線に用いたと推定される溝がある[34]。戦後、木の床板が敷かれた[31]。 天井には蛍光灯が並びとても明るかった[28]、夏暑い時期でも室内は空調が効いて涼しかった[35]、被爆直後も電気が確保されていた[35]、という証言が残る。 沿革被爆直前の警報以下、中国軍管区司令部が1945年8月13日作成した資料『八.六廣島市被害状況』内の「敵機ノ來襲並二警報発令状況」と、広島市公式『広島原爆戦災誌』に記載されている、8月1日から6日8時15分までの警報発令状況を示す。
8月以前まで頻繁に警報が発令されたが、8月に入ってから急に少なくなり2日から4日までほぼなかった[36]。この2、3日間で市民は不思議に思っていた[36]、あるいは広島は空襲されないという希望的な推察が流布していた[39]。そして5日から急に警報発令が増えることになる[36]。 8月6日、7時31分警戒警報解除以降何もなかったため、中国軍管区司令部防空作戦室の軍人たちは宿舎に戻っていたという[10]。一方で学徒通信隊(比治山高女生徒)は8時が夜勤と日勤の交代時間であったが、8月6日朝は大本営前で行われていた比治山高女の朝礼が長引いたため、8時を過ぎても夜勤の第2班が勤務していた[10][17]。比治山高女教師と第1班第3班の約60人ほどは、8時15分被爆時には大本営前で竹槍の戦闘訓練中であった[6][40]。 一般に、広島原爆投下直前に防空警報は発令されていない、とされている[2][12]。ただし警報を発信した、あるいは警報を聞いたという証言も残っている[2][12]。
こうしたことから、警報発令を伝達する最中に被爆したため、一部で警報発令が伝わり、地区によってはそれでサイレンを吹鳴した可能性があると考えられている[2][12]。 なお、当時ラジオ放送は1日6回の放送休止時間があり、被爆前後にあたる午前8時から午前10時は休止時間だった[12]。その時間帯でも防空警報は緊急放送で流されたが、受け手である市民はラジオの電源を切っていたため、警報サイレンが鳴らなければラジオをつけて情報を得ることができなかった[12]。また敵機飛来に慣れてしまい警戒警報発令中でも町を歩いていた者がいた、とする証言も残っている[39]。 第一報8月6日8時15分被爆。防空作戦室は爆心地から約790mに位置した[6][40][18]。その強固な構造形式のため倒壊には耐えた。熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって中の人間が吹き飛ばされ鼓膜が破れる者も出るなど多くの負傷者を出した[40][17]。 中国軍管区司令部があった広島城は爆心地に近かったため、原爆の閃光と同時に爆風が襲い、ほぼ全員が吹き飛ばされるか倒壊物の下敷きになった[43]。司令部は1号庁舎の中央レンガ部分と拘置所の一部を残し爆風により壊滅した[40]。司令部には当時1000人程度勤務し[44]、うち軍人・軍属約700人、比治山高女教師生徒64人、拘置されていたアメリカ人捕虜2人が死亡した[6][40][8]。防空作戦室の外にいたものはほとんどが亡くなったという[10]。 広島原爆第一報をここから外電したのは岡ヨシエ(旧姓大倉)と荒木克子(旧姓板村)の当時14歳の比治山高女生徒2人である。以下、岡の手記「交換台と共に」[45]から引用する。
同様に荒木の手記「軍管区指令部に動員されて」[46]から引用する。
彼女たち生き残った生徒は、一旦避難したり、あるいは被爆後も司令部周辺に留まり救護活動している[10][17]。その後彼女たちは再び司令部に集まり救護活動に務め、8月17日解散式となった[10][17]。 なお、中国軍管区司令部による最初の公式発表は、8月6日15時か16時頃松村秀逸参謀長が中国新聞大佐古一郎記者に答えた形であった[47]。ただこの時点では中国新聞も壊滅していたため公表されることはなかった[47]。 被爆建物1956年、広島護国神社が広島城址公園内に移転[注 4]することになる[48]。そこからこの建物は神社の倉庫として用いられていた[31]。 1979年、慰霊碑が建立された[44]。また平和学習の場として用いられ、修学旅行生を中心に年1万人が訪れていたという[5][7]。 2015年被爆70年目にあたり、広島市文化財団が中国軍管区司令部跡の詳細な建物構造を調査し広島城資料館で公表するという企画展が開催される[18]。2017年広島市が耐震調査に備えて視察した際に、コンクリートの剥離が進行していたため落下の可能性があるとして内部見学中止処置が取られた[49]。ただ調査のため一時壊さなければならないことと耐震補強に多額の費用がかかることに加え、所有者である財務省・国史跡広島城の中にあるため文化庁と協議しなければならず、保存に向けて時間がかかっている[5]。 交通脚注
参考資料
関連項目外部リンク
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