建州女直建州女直 (ケンシュウ ジョチョク,拼音:jiànzhōu nǔzhí) は、女真の一種に対する明側の呼称。蔑称として「建夷」[1]とも。 明永楽帝は積極的に女真羈縻に乗り出し、女真 (女直) を三種に大別した。建州女直はその内の一つである。建州女直はさらに四つの衛から構成され、建州右衛から頭角を顕したヌルハチ (後の清太祖) が後に建州部を統一して滿洲国マンジュグルンを樹立し、海西女直併合後に後金国アイシン・グルン、子ホン・タイジの代で大清国ダイチン・グルンと国号を改めた。 構成『大明會典』巻107「東北夷」に拠れば、明朝は女真を三種類に大別し、明から距離的に最も近い一種を建州女直、最も遠い極東の一種を野人女直 (清側の呼称では東海)、その中間を海西女直 (清側では扈倫フルン) と呼んだ。その内の建州女直については「建州・毛憐等ノ處ニ居ル者ヲ建州女直ト爲ス」としている。建州女直はさらに建州三衛 (建州衛・左衛・右衛) と毛憐衛の四衛から構成され、建州三衛の内、右衛のヌルハチが後に建州部を統一する。[2] 清代の地理書『柳邊紀略』巻3に拠れば、建州・毛憐は大きくわけて滿洲マンジュ(建州に相当) と長白山ゴルミン・シャンギャン・アリン(毛憐に相当) の二つあり、それぞれがさらに数部にわかれ、各部にはいくつかの城塞が隷属した。[3] 滿洲
長白山
歴史明朝の支配と独立明の第3代皇帝である永楽帝は中国東北部へ出兵、黒竜江付近まで進出して女真族を支配下に置いた。この時、明朝はこの地を招撫支配するため建州衛、建州左衛、建州右衛を設置、女真族を衛所制に組み込んだ。女真族は衛所を通じて明朝と交易をおこなう中で社会的、文化的な影響を受け漢化していった。16世紀後半に明との関係が悪化すると、三衛の混乱に乗じて事実上独立し、有力者の率いる「アイマン」(ᠠᡳ᠌ᠮᠠᠨ, aiman、部)を形成、建州五部が出現した。 建州の統一遼東一帯を統括した明の武将李成梁は、勢力を強める建州女直を海西女直と争わせる方針をとった。この中で彼は、蘇克蘇滸河スクスフ・ビラ部のニカンワイランとヌルハチを支援し、後の1587年にヌルハチに建州女直を統一させた。この結果、マンジュ国を建設したヌルハチは、明朝が豊臣秀吉の朝鮮出兵への対応に追われている隙に海西女直を撃破、女真族を統一して後金を建国するに至った。 明による羈縻政策建州女直は各衛所の外に地面、站、寨を有し、明から官職を賜わる際には勅書が賜与された。[2] 朝貢は年に一度、10月頭から12月までと定められた。[注 2]建州女直は建州衛・左衛・右衛・毛憐衛それぞれから100人程度が入境したが、のちに定員を500人と定められた。入貢は開原城を起点とした。貢物は主に、馬、貂鼠の毛皮、猞猁猻の毛皮、海青[注 3]、兎鶻、黄鷹、阿膠、殊角 (海象牙) など。[2] 脚註典拠
註釈文献 |
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