弘益大学校弘益大学校(ホンイクだいがっこう、英称: Hongik University)は、ソウル特別市麻浦区上水洞72-1に本部を置く大韓民国の私立大学である。1947年に設置された。大学の略称は弘大(ホンデ)。
韓国を代表する美術家やデザイナーが多く輩出されており、芸術界やメディア界に一定の影響力を持つ。 所在地弘益大学校は6号線上水駅と、2号線・空港鉄道・京義・中央線弘大入口駅の近くにある。 大学周辺は「弘大」(ホンデ)、「弘大前」(ホンデアプ)と呼ばれる学生街で、美術・デザイン系の学生が集中することからギャラリー・クラブ・バー・レストラン・ライブハウス・アトリエなどが多い先鋭的でファッショナブルな地区となっており、昼夜を問わず人でにぎわう。また韓国のインディーズ音楽シーンの中心地でもある。 歴史日本統治時代に上海の大韓民国臨時政府や満州で宗教活動や民族主義活動を行っていた大倧教(だいそうきょう)の関係者が、朝鮮独立後に朝鮮に戻り、これまでの抗日闘争を民族教育救国闘争に転換しようとして大学創立を決めたことが始まりであった。大倧教は教義の「弘益人間」に基づき弘益大学設立準備委員会を設立し、1947年に4月25日財団法人弘文大學館が設立された。同年6月27日ソウルの龍山区で開校したが、当初は非認可学校であり経営難で苦しんだ。その後、大倧教の支援者であった李興秀の多額の寄付と、多数の独立運動家らの参加により1948年8月10日に財団法人弘益学院および弘益大学館は大学の正式設立認定を受け、1949年6月27日に法学部、文学部、初級大学部からなる4年制弘益大学が設立された。 朝鮮戦争の期間中、大学は大邱へ、さらに釜山へと移転したが、1953年にソウルに戻り1955年に現在のソウルキャンパスの位置に移転した。大学は朝鮮戦争前から李承晩政権と衝突し、様々な干渉を受けた。1961年、拡大し続けていた弘益大学校は政府の規制により美術学部のみの単科大学に縮小させられ弘益美術大学と改称したが、1971年に首都工科大学と合併して再度総合大学へと再編され、法学・文学・経済学・建築などの学部が再建され、同年には産業美術系の大学院も創設された。 1970年代には付属中高校が、1980年代には校舎や体育館および寮などの建設が進められ、1989年には忠清南道燕岐郡(現:世宗特別自治市)に第二キャンパスを開設した。1988年からは講義棟や諸施設の建設が始まり1991年に完成し、さらに1994年にかけて施設の増設と学科の新設が行われた。ソウルの工学部には通信科学コミュニケーション学科が開設され、第二キャンパスの産業科学部は科学技術学部と視覚芸術学部に分割され、後者には産業デザインと広告デザイン学科が開設された。この時期に経営学部も追加された。 2004年には映画・デジタルメディア系の大学院とデザイン系の大学院("International Design school for Advanced Studies")が新たに開設されている。2009年には大学博物館を改編し、弘益大学校現代美術館(HOMA、Hongik Museum of Art)を独立させた。 2002年にはソウルの文化芸術の中心のひとつである鍾路区大学路(テハンノ)に大学路キャンパスが開設された。2008年からの再開発工事の後、2012年11月再開している。大学路キャンパスは、6,457平方メートルの敷地に国際デザイン専門大学院、産業美術大学院、映像大学院、舞台芸術大学院、広告宣伝大学院を設け、デザイン革新センター、国際デザイントレンドセンター、ソウル国際デザインプラザ、ソウルデザインセンター、大学路アートセンターを設置している[1]。大学路キャンパスの場所は、1963年2月から1976年2月まで、ソウル大学美術学部があった場所で、ソウル大が冠岳キャンパスに移転した70年代以降は輸出デザインセンター、韓国パッケージセンター、韓国デザイン振興院などがあった[2]。 2011年1月、労働争議が発生。1月2日限りでビルメンテナンスの職員170人が何の予告もなく解雇された事に端を発するもの。職員達は総長に説明を求めて学校本館6階で座り込みを行なった。 組織![]() 学部
大学院(+)は博士課程のあるもの、(++)は博士課程のみのもの
交通
関連項目脚注
外部リンク |
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