御木本隆三御木本 隆三[1](みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)10月27日[2] - 1971年(昭和46年)6月6日[2])は、日本の著述家[1]、ジョン・ラスキン研究者。 生涯三重県志摩郡鳥羽町(現鳥羽市)に生まれる[1]。御木本幸吉の長男[3]。第一高等学校を経て東京帝国大学文科に学ぶ[1]。1914年に京都帝国大学に進み、河上肇のもと、イギリスの思想家、美術評論家のジョン・ラスキンを学ぶ[4]。同校中退後[2]、父親の会社で働きはじめるも、ラスキンは「海の底で真珠を探してドレスを飾るために100人のダイバーを雇うべきではない」(原文は「袖に縫い付けるビーズを見つけるために100人のダイバーを雇ってはいけない」)と述べているとして家業に批判的であった[4]。 1920年に渡英し[4]、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学に学ぶ[5]。文学の研究に没頭する[1]。1924年、ロンドンのリージェントストリートに御木本真珠の小売店が開設され、店長を務める[6]。1925年、帰朝する[1]。郷里鳥羽町に於いて真珠養殖業を経営する[1]。 1926年、滞英中に収集したラスキン資料150点を展示するラスキン展を東京の資生堂ギャラリーで開催(1931年、1933年に京都の同志社大学キリスト教会衆派教会、神戸の青年キリスト教青年会でも開催)[4]。 1931年にラスキン協会を設立、ラスキン協会雑誌を刊行し、1934年には東京の銀座にラスキン文庫を開設、「ラスキンホール」「ラスキンテーハウス」を経営していたが赤字となり、1939年春、東京区裁で強制和議認可の決定を受け、以来、父の幸吉に借金を返済させ続ける[7]。 戦後、1949年には東京麻布の自宅にラスキン文庫を復活させるが、1950年春から再び浪費を繰り返し、860万円以上を借金して費消[7]。このため、1952年、甥の武藤武治から浪費者として準禁治産宣告の申し立てを東京家庭裁判所に起こされ、準禁治産者となった[7]。当時の隆三は「私の方が悪いんだというより他はない。浪費といっても外人の接待などに使ったのでやむを得ないと思う。将来三浦半島あたりで小さな真珠の工場を造り、ラスキンの研究を続けたいというのが夢のような現在の理想だ。刺激をして親父と争いたくない」と語っていた[7]。 没後の1984年に子の美隆と幸子が「財団法人ラスキン文庫」(現・一般財団法人)を再興、二人と同じ日本基督教団霊南坂教会の信徒の隅谷三喜男が初代理事長を務めた[8]。 人物テニスが趣味で、1929年には軽井沢会テニスコートのクラブハウスをウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計で竣工し、寄贈[9][10]。1933年に私家版『Lawn Tennis and John Ruskin』を上梓[11]。1936年には毎日テニス選手権のベテラン男子シングル部門で優勝[12] プロテスタント系のクリスチャンであったが信仰でも心の不安が晴れず、精神の解放を知的探求に求めることを決して、ラスキン研究をライフワークとした[4]。 家族・親族父親の御木本幸吉はミキモト創業者である。縁戚関係のある著名人が多数存在するため、下記では親族の範囲に該当する者のみを記載した。
系譜
著書
翻訳
脚注
参考文献
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia