戦艦シュペー号の最後
『戦艦シュペー号の最後』(せんかんシュペーごうのさいご、The Battle of the River Plate)は1956年のイギリスの映画。 第二次世界大戦の大西洋の戦い序盤で生起したラプラタ沖海戦で、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) の軍艦(装甲艦)「アドミラル・グラフ・シュぺー」(DKM Admiral Graf Spee) が自沈した[2]。この海戦を、マイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーのコンビ「パウエル=プレスバーガー」による共同製作・監督・脚本で映画化した作品[3]。出演はピーター・フィンチなど。 撮影に本物の軍艦を使用し、「アキリーズ」は実際にラプラタ沖海戦に参加してシュペー号と砲火を交えた艦艇であり、「カンバーランド」もモンテビデオ沖に増援として派遣され、戦艦シュペー号を自沈に追い込んだ立役者である。戦艦シュペー号(満載排水量約1万6000トン)はアメリカ海軍のデモイン級重巡洋艦「セーラム」(満載排水量約2万1000トン)が演じた。 ストーリー→「アドミラル・グラーフ・シュペー (装甲艦)」も参照
ヴェルサイユ条約による軍備制限下、ヴァイマル共和政下で建造されたドイッチュラント級装甲艦(通称ポケット戦艦)[注釈 1]の一隻グラフ・シュペー号は、アドルフ・ヒトラーの政権掌握によりナチス・ドイツの国防軍が運用することになった[5]。第二次世界大戦勃発後の1939年11月15日、シュペー号はポルトガル領東アフリカ沖で英貨物船アフリカ・シェル号を撃沈し[6]、船長のダヴらをとらえる。 捕虜たちは、シュペー号の艦長ハンス・ラングスドルフの意向により丁寧に扱われ、のちに補給船「アルトマルク号」に移送された。その後、シュペー号は英国の商船を撃沈するたびに捕虜を載せていき、ついには50人以上の捕虜が乗船している状態となった。 12月12日、シュペー号は南アメリカ大陸ウルグアイのラプラタ川 (Río de la Plata) 沖にて、ハーウッド提督が率いるイギリス海軍のG部隊(軽巡「エイジャックス」、軽巡「アキリーズ」、重巡「エクセター」)に捕捉された[7]。砲撃戦で損傷したシュペー号はウルグアイのモンテビデオに逃げ込み、乗っていたすべての捕虜を解放して修理をはじめた。 ハーグ条約の国際法では24時間以上の在泊は認められないため、ドイツ大使ラングマンと連合国側の大使の駆け引きの末、72時間の在泊の延長が認められた。 そして12月17日夕方、シュペー号の大半の乗組員を下船させる形で出港する。そして、ラングスドルフ艦長は、補給船タコマ号に乗船した後、シュペー号を自爆させる。 キャスト
※ハピネットから2023年5月10日に発売の「吹替シネマ2023」第2弾『戦艦シュペー号の最後-日本語吹替音声収録 HD リマスター版-』にはフジテレビ版の日本語吹替(77分22秒[8])を収録。一部音源の無い箇所はオリジナル音声・日本語字幕となる[9][10]。また吹替音声欠落部分をスキップできる「日本語完全版再生機能」を搭載予定[11]。 エピソード1956年10月29日にロンドンで行われた『戦艦シュペー号の最後』のロイヤルプレミア(王族を迎えた上映会)で、マリリン・モンローはエリザベス女王とマーガレット王女に謁見している[12]。モンローは『王子と踊子』の撮影でイギリス滞在中だった。 実物が残っていなかった艦船には代役が立てられ、「シュペー」役にはアメリカ海軍の重巡洋艦「セーラム」、補給艦「アルトマルク」役にはイギリス海軍補助艦隊の油槽船「オルナ」が、補給船「タコマ」役にはイギリス海軍補助艦隊の輸送船「フォート・ドゥケイン」が、重巡洋艦「エクセター」役に軽巡洋艦「ジャマイカ」が、軽巡洋艦「エイジャックス」役に軽巡洋艦「シェフィールド」がそれぞれ用いられている。試験艦として現役であった重巡洋艦「カンバーランド」と、インド海軍の「デリー」となっていた「アキリーズ」は実物が撮影に参加している。その他、アメリカ海軍・イギリス海軍のいくつかの艦艇が特定のシーンの撮影やカメラ船として使用された。 シュペー号でドイツ海軍旗が掲揚されるシーンは、アメリカ海軍が「セーラム」に掲揚することを許さなかったため、別にイギリス海軍艦で撮影が行われた。また、同様の理由でシュペー号の乗員がドイツ軍のシュタールヘルムではなくアメリカ軍のM1ヘルメットを被っているシーンがある。 脚注注釈出典
参考文献
外部リンク |
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