戸塚ヨットスクール事件
戸塚ヨットスクール事件(とつかヨットスクールじけん)は、1983年までに愛知県知多郡美浜町の更生施設「戸塚ヨットスクール」内で発生、発覚して社会問題に発展した、複数の訓練生の死亡事件を含む一連の事件。 当時の戸塚ヨットスクールではカルト性が問題視されていて、効果が普遍的・科学的に実証されていなかったにもかかわらず「戸塚ヨットスクールの訓練を受けることで、癌、パーキンソン病、膠原病、糖尿病、ネフローゼなどありとあらゆる難病が治る」と宣伝[1][2][3](特に肝炎については一週間で治るとしている[4])しており、実際にこうした謳い文句を信じて入校した生徒も存在した。事件当時、逮捕されたコーチのうち2人が「訓練生は大嫌いだった」「教育はこじつけで、実態は訓練生いじめだった」「金儲け主義に走ってしまった」などと供述している[5]。なお、かつての入校金は300万円であった[6]。現在は問題児の受け入れは一切行わず、胎児と0歳児を対象とした訓練へとシフトしている[7]。 戸塚宏により設立された戸塚ヨットスクールは、当初は「戸塚宏ジュニアヨットスクール」の名称で、ヨットの技術を教える教室だった。その後非行や情緒障害等に戸塚の指導は効果があるという真偽不明の噂がマスコミで報じられたことで、親元からスクールに預けられる生徒が増加し、指導内容をヨットの技術養成から、科学的根拠が存在しない非行や情緒障害の更生へと切り替えた。当初は教育界のカリスマとしてマスコミは好意的に取り上げていたが、後に事件が発覚した。 2名の死亡事件が発生した直後に、同事件を題材とした「スパルタの海」がノンフィクション小説として中日新聞・東京新聞に掲載され、映画版(伊東四朗主演・西河克己監督)も制作された。 概要1976年、戸塚宏によって設立された戸塚ヨットスクールは当初はオリンピックに通用するヨットマンの育成を目的としていた。戸塚は「普通の子供を対象にヨットでの教育を行っていたが、そこに不登校児が一人入校し、3回の訓練で学校に行くようになった。」と主張し、そのことを1977年、「徹子の部屋」出演時に話をしたところ一気に情緒障害児の入校希望が増えたという。 訓練生の死亡・傷害致死・行方不明といった事件が1980年代を通じてマスコミに取り上げられ、スクールの方針が教育的な体罰というより過酷な暴行だったことが司法判断によって確定した。
訓練中に発生した死亡・行方不明事件
当時13歳だった少年の母親は週刊現代(2006年11月18日号)の実名インタビューで「出所後も焼香や謝罪は一切無かった。再犯が懸念される」という旨のコメントをしている。また、1982年にフェリーから海に飛び込んだとされて行方不明となっている少年の父親は同じく実名で「息子が本当に船から海に飛び込んだのかどうか未だにわかっていない。本当は突き落とされたのではないか」とコメントしている。 一連の事件は、日本において体罰の是非を問う討論等でたびたび参考として出され、また個人の教育論の展開(講演会や商業書籍の執筆など)のために、引き合いに出されている。 普通訓練生の死亡上記のO事件で、1982年12月12日に死亡した少年Oは、所謂情緒障害児ではなく、「身体を鍛えたい」と自ら入校したが、入校からわずか8日後に死亡した。 少年Oの母親は、息子に入校を勧めたことを悔いた上で、「人の命をなんとも思わない暴力集団をとことん糾弾する」との決意を表明した[8][9]。 公判戸塚及び元コーチ9人の公判第一審1992年7月27日、名古屋地方裁判所(小島裕史裁判長)は、Y事件、O事件についてそれぞれ傷害致死罪の成立を認め、あかつき号事件について監禁致死罪の成立を認めた。その上で、戸塚に懲役3年、執行猶予3年(検察側の求刑は懲役10年)、コーチらA~Iに懲役10ヶ月から2年6ヶ月、執行猶予2年から3年を言い渡した。 執行猶予となったのは、戸塚と、C以外のコーチ8人について起訴後の勾留期間が1100日を超えていること、Cについても起訴後の勾留期間が1000日近いことが量刑上考慮されたためである[10]。弁護側は、体罰が正当業務行為であると主張していたが、この主張は退けられた。なお、Fは、強制わいせつ罪についても起訴されていたが、これについては無罪となった。 この判決に対して、検察側と戸塚、A、B、C、D、Fの6人が双方で控訴した。 控訴審1997年3月12日、名古屋高等裁判所(土川孝二裁判長)は「訓練は生徒達の人権を無視し、更生の名目で数々の暴力を振るった。もはや教育でも治療でもない」として一審判決を破棄し、戸塚に懲役6年、Aに懲役3年6月、Bに懲役2年6月、Cに懲役3年の実刑判決を下し、D、Fについて執行猶予判決を下した。 また、一審判決では、Y、Oの死因について外傷性ショックであるとの認定がなされなかったが、二審判決では、いずれも外傷性ショックが死因であると認定された[11]。 この判決に対して、戸塚、A、B、Cの4人は即日上告した。 上告審2002年2月25日、最高裁判所(福田博裁判長)は二審判決を支持して、戸塚らの上告を棄却。これで戸塚の懲役6年とコーチ陣ら起訴された15人全員の有罪が確定判決となった。起訴から結審まで19年を要する長期裁判となった。 判決一覧
他のコーチの公判
校長の刑務所生活戸塚は、静岡刑務所に服役した際に、刑務官からお菓子の量を減らされたことなどに憤り[13]、刑務所内における人権侵害を告発する著書『静岡刑務所の三悪人』を出版した。同書には、以下のように記されている[14]。
事件後
オウム真理教との関係 戸塚は、2020年にオウム真理教の後継団体であるひかりの輪代表の上祐史浩と二度にわたって対談を行ったほか、ヨットスクールと同じく、マスコミで大々的に取り上げられ、社会問題となった麻原彰晃やオウム真理教について肯定的な評価をしており、以下のような見解を示している[21]。
また、 「理科系は天下の秀才であり、真理を理解することができる」とした一方、現在は麻原彰晃およびAlephに批判的な上祐氏(早稲田大学理工学部出身)については、「ただの偏差値秀才」「仲間を警察に売った裏切り者」「修行が足りない」と批判した[22]。 2020年2月21日、ニコニコ動画に投稿された日本文化チャンネル桜の動画内での我那覇真子との対談の中でも、上記と同様の見解を示し、「オウム真理教は仏教」「仏教は科学」だと主張した[23]。
元訓練生による証言光文社が発行する写真週刊誌『FLASH』に掲載された元訓練生の証言によると、スクール内でコーチや支援者による生徒に対する以下のような性加害が行われており、その様子を見て戸塚宏は笑っていたという[24]。
また、上記証言を行った元訓練生は被爆地の出身であったことから「原爆」というあだ名をつけられ、殴られながら「原爆頭やから人よりも丈夫やろう?」と言われたという[25]。 脚注
関連項目
外部リンク |
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