日本柔道選士権大会![]() 日本柔道選士権大会(にほんじゅうどうせんしけんたいかい)は、かつて日本で開催されていた柔道の大会。講道館主催、朝日新聞社後援。 概説![]() 全日本柔道選士権大会として第1回大会が1930年に東京で開催されて以降、昭和天覧試合との兼ね合いで開催が見送られた1933年と1940年を除きほぼ毎年開催されており、同じく毎年ないし隔年で開催された明治神宮大会や不定期に開催された昭和天覧試合と並び、当時の柔道家にとってはビッグタイトルの1つであった。 この大会は嘉納治五郎の創案によって開始されたもので、柔道団体自らが主催(第1回大会および第5-10回大会は講道館、第2-4回大会は中央有段者会が主催)する全国規模の大会という点で明治神宮大会(厚生省・大日本体育協会主催)や天覧試合(宮内省主催)と比べ特筆される[1]。
大会は専門選士と一般選士の2つに分類し[注釈 1]、1938年の第8回大会までは更に年齢別[注釈 2]に壮年前期(20~29歳)・壮年後期(30~37歳)・成年前期(38~43歳)・成年後期(44歳~)と4区分していたため、各大会とも8人のチャンピオンが存在していた[注釈 3]。この区分制度は嘉納治五郎曰く“力のつり合い”を考慮してのものであったが、選士権という特性上チャンピオンは1人であるべきという風潮が高まり、1939年の第9回大会と1941年の第10回大会(最後の大会)では日本柔道選士権大会と改称されると共に年齢別制が廃止された[注釈 4]。 太平洋戦争の影響による中断期間を経て、戦後の1948年に当大会の流れを汲む全日本柔道選手権大会が開催された際には、更に専門選士・一般選士の区分が廃止され唯一無二の全日本チャンピオンを決する大会となって今日に至る。 この大会に先立ち、1938年の第8回大会までは府県単位の1次予選と全国(樺太・朝鮮・満州を含む)を左表の通り8ブロックに分けての2次予選が行われ、それぞれブロックの8人の優勝者が選士権本大会に出場していたが[注釈 5]、年齢制度が廃止された第9回大会と第10回大会は予選も府県単位のみに変更されている。選士権本大会は、主に2日間に亘ってトーナメント方式で争われ、栄えある優勝者には優勝旗のほか賞牌・証状・記念品が贈られた[1]。 なお、柔道の競技大会としては1929年の昭和天覧試合で初めて判定制度が導入されたが、当大会では判定による決着は採り入れられていない。そのため、時間内に勝敗が着かない場合は3,4回の延長の末、決勝戦以外は抽選によって決し[注釈 6]、決勝戦の場合は“優勝預り”という扱いになった。 大会記録第1回大会
第2回大会
第3回大会
第4回大会
第5回大会
第6回大会![]()
第7回大会![]()
第8回大会
第9回大会
第10回大会
脚注注釈
出典
関連項目 |
Portal di Ensiklopedia Dunia