李祖原
![]() 李 祖原(リー・ズーユェン、り そげん、英語名:C.Y. Lee / Chu-Yuan Lee / チュユァン・リー、1938年12月30日 - )は中華民国広東省出身の建築家、画家。 中華文明伝統の特色を受け継いだ現代建築が特色で、現代建築では台北101や高雄85ビルなどの高さで台湾の上位を占める超高層ビル、宗教施設では中台禅寺などの代表作が知られているほか、画家として水墨画の作品も手がけている[1]。 人物![]() 中華民国時代の中国広東省掲陽県で出生。 国立台湾師範大学附属高級中学を経て、国立成功大学建築学系(系は学部に相当。1961年卒業[2])、米国プリンストン大学建築学科(Princeton University School of Architecture)に進み1966年Master(修士号)[2]。 1970年、東海大学建築系助理教授に就任し同年にイオ・ミン・ペイの建築事務所で日本万国博覧会「中華民国館」の設計助手[2]。 これが李の建築家としての実務デビューとなった[3]。 1971年、米国フィラデルフィアのノーレン・スウィンバーン・アソシエイツ(Nolen-Swinburne & Associates)[2]、ボストン再開発公社(Boston Planning and Development Agency)およびロサンゼルスのウィリアム・ペレイラ(William Pereira)建築事務所などに所属。ペレイラの事務所に在籍したことで李はトランスアメリカ・ピラミッド(1972年完成)の案件に関わるという幸運を得た[3]。事務所ではペレイラに次ぐ地位まで上り詰めたが、内心では望郷の念が強くなっていった[3]。 1978年に台湾に戻ると、事務所を開設。華人の実業家鄭周敏が開発する環亞世界大楼の設計を担い、以後は台湾と中国で多くの代表作を世に送り出している。2003年から2006年まで友人の石山修武の要請で早稲田大学建築学科教授を務める[2]。2009年、李の建築事務所は悲情城市などの舞台となった九份老街の昇平戲院を新北市政府に寄贈した[4][5]。 禅宗を篤く信仰するようになったのは、禅七[注釈 1]と臨済宗法師の釈惟覚との縁によるもの[3]。李が中華と西洋の工法を組み合わせて2001年に南投県埔里鎮で完成させた中台禅寺はその影響を受けている[3]。 設計思想軍人の子として生まれ、決して裕福な家庭ではなかったが、小学5年で美術に目覚めた。家系には美術の天分があったとしている[3]。師範大付属高でも自身は他の多くの生徒同様、美術教師を志していたが、クラスで建築家を目指していた1人の同級生に影響を受けてクラスでは美術教師にも建築系の指導、試験を求めるようになった[3]。 当時の台湾の大学で建築学部を設けていたのは成功大学だけだった。高校での美術指導が功を奏してか、同年に成功大学建築学部に合格した50名のうち、師大附属出身者は李を含めて5人を占めた[3]。 大学では1年生から4年生まで一つの大家庭のような校風で昼夜を問わず学内のアトリエでデッサンに明け暮れて、収穫が多かったという[3]。 青年時の李はスイスの建築家ル・コルビュジエ(1887-1965)を「建築作品は芸術家としての才気に溢れ、歴史を変えた一人であり、現代建築史の偉大な人物」と評し、自身の手本にしていた[3]。 台湾に帰国後も「中国文化を知らずして、中国人の建築を設計することはできない」として、『中華建築』の思考を深めていく[3]。中国の代表的思想家の牟宗三に入門し、儒学、仏学、老荘思想を学んで「最高の文化は宗教にほかならない」という境地に辿り着く[3]。 中華と西洋の文化をぶつけあった成果物として「東王漢宮」や「大安国宅」を生み出した[3]。李は「屋上部に中国古代建築の屋根を置いてみた」と語っている[3]。 宏国大楼(1989年)は李が「自己の中国建築意識を作品に反映できた」と初めて自認できるものとなった作品で、儒学に則った左右対称の外観と、天・地・人の三者の関係を物語る形状で、中国建築がもつ特色を「形式化」から「概念化」へ変えることを試みたという[3]。 一方で21世紀になってからは雑誌『EGG[注釈 2]』と国内の若手建築家が選定する『台湾で最も醜い建築物』に李の作品が数件ランクインするなど、世代の違いとはいえ不名誉な評価もある[7][8]。 栄典
主な受章物件
主な作品
台湾
台湾国外
脚注註釈出典
関連項目
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia