村松岐夫
村松 岐夫(むらまつ みちお、1940年1月3日 - )は、日本の政治学者。専門は、行政学・地方自治論。学位は、法学博士(京都大学・1984年)。京都大学名誉教授。日本学士院会員、文化功労者。瑞宝中綬章。 京都大学法学部教授、京都大学評議員、京都大学大学院法学研究科教授、京都大学大学院法学研究科研究科長、京都大学法学部学部長、学習院大学法学部教授などを歴任した。 概要静岡県出身の政治学者である[1]。政治学界で従来主流を占めていた官僚優位論に疑問を持ち[1]、新たに政党優位論を提唱した[1]。さらに、戦前戦後断絶論の見地から[2]、日本の行政官僚制や地方公共団体を実証的に分析し[2]、太平洋戦争後の日本の政治体制は多元的な統治構造を持つことを明らかにした[2]。その結果、日本の政治学界・行政学界に日本型多元主義論や地方政治論といった新たな潮流が生まれるなど[2]、多大な影響を及ぼした。後進の育成にも力を注ぎ、京都大学や学習院大学にて教鞭を執った。また、猪口孝、大嶽秀夫と共に、学術雑誌『レヴァイアサン』を創刊したことでも知られている。 来歴生い立ち1940年、静岡県小笠郡掛川町にて生まれた[3][註釈 1]。静岡県立掛川西高等学校を1958年3月に卒業すると、京都大学に進学し、法学部にて学んだ。1962年3月、京都大学を卒業した。 研究者として大学卒業後は母校で教鞭を執ることになり、1962年4月より京都大学法学部で助手を務めた。1964年5月、京都大学法学部助教授に昇任した。1976年3月、京都大学法学部教授に昇任した。法学部においては一貫して行政学講座を担当した。1978年に発足した大平正芳政権の下では、直属の政策研究会の一つ「多元化社会の生活関心研究グループ」(議長:林知己夫統計数理研究所長)の研究員を担った。この間、博士論文「戦後日本の官僚制」を執筆し[4]、1984年3月23日に京都大学より法学博士を授与されている[4][5]。大学院重点化に伴い、1992年4月より京都大学大学院法学研究科教授の方が本務となった。法学研究科では現代政治行政分析講座を担当した。京都大学においては要職を歴任しており、1990年3月から1992年3月にかけて評議員を兼務し、1995年4月から1997年3月にかけては法学研究科の研究科長と法学部の学部長を同時に兼務した。また、1998年から2001年にかけては、国際日本文化研究センターにて教授を兼任していた。2003年3月、京都大学を退職した。同年4月、京都大学より名誉教授の称号が授与された。 2003年4月より学習院大学に転じ、法学部の教授に就任した。法学部においては政治学科の講義を担当した。2010年3月、学習院大学を退職した。2003年4月、紫綬褒章を受章。2014年4月、瑞宝中綬章を受章。2014年12月12日、日本学士院会員に選任された[2]。2017年11月には、文化功労者として顕彰された[6][7]。行政学・地方自治論の分野から文化功労者として顕彰されるのは、史上初めてとなる[8]。 研究専門は政治学であり[2]、特に行政学や地方自治論といった分野の研究に従事した。理論仮説の妥当性を客観的なデータに基づいて検証する理論化指向と実証研究指向を特徴としており[2]、統計調査の手法を確立するなど[1]、政治学に実証主義の考え方を導入した[1]。 1981年には『戦後日本の官僚制』でサントリー学芸賞を受賞した[9][10]。この中で戦後日本の官僚制について提唱した政党優位論は、それまで辻清明や西尾勝ら東京大学の行政学系列の学者を中心に唱えられていた官僚優位論と異なるものであり、注目を集めた。しかし、2010年3月6日の学習院大学退職記念最終講義において、村松は西尾自身は官僚優位論を唱えていないことを指摘した上で、実際の論争の相手は京都大学の先輩諸学者であったと言明している。1989年度には『地方自治』で藤田賞を受賞した[11]。 1987年には、猪口孝や大嶽秀夫と共に学術雑誌『レヴァイアサン』を創刊するなど、実証主義的な政治学の発展に貢献した。 略歴
賞歴栄典著作単著
共著
編著
共編著
訳書門下生
脚注註釈出典
関連項目外部リンク
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