東アジア反日武装戦線
東アジア反日武装戦線(ひがしアジアはんにちぶそうせんせん)は、1970年代に爆弾テロを行った日本のアナキズム系の極左テロ集団、極左暴力集団[1][2][3][4][5][6][7]。1974年8月の三菱重工爆破事件(死亡8名、重軽症380名)[7]から1975年5月の主要メンバー一斉逮捕・壊滅までに12件の連続企業爆破事件[8]を実行した。犯行声明で反日本帝国主義(反日思想)やアイヌ革命論などを主張し[9]、海外進出日本企業を「アジア侵略に加担している企業」と批判した[5]。 東アジア反日武装戦線は法政大学学生出身者を中心とした3グループ約9名で、思想的には太田竜の影響を受け、1974年3月に爆弾製造教本の腹腹時計を地下出版し、1974年8月に昭和天皇爆殺未遂事件(虹作戦)を起こしていた。メンバーは警察に認知されていなかった普通の市民を装った非公然活動家[10]で構成された[9]。警察白書の極左暴力集団等のセクト分類では、5グループ22セクト(5流22派)には含まず、ノンセクト・黒ヘルグループに区分される[11]。 1977年9月の日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件での超法規的措置にて、一部メンバーは釈放され日本赤軍に合流した[12][13][14]。 歴史法政大学Lクラス闘争委員会1970年春、大道寺将司が法政大学文学部史学科在学中に結成した「Lクラス闘争委員会」が源流である。「Lクラス」は、大道寺が所属していた大学のクラスのことで、党派的にはノンセクト・ラジカルに分類される。大道寺が他学科の哲学科や国文科(現在の日本文学科)にも参加を呼びかけた結果、一時は百数十名にも膨れ上がった。この頃からのメンバーに片岡利明、協力者とされたA、Bらがいた。全共闘運動の終息とともにLクラス闘争委員会も自然消滅した。大道寺、片岡、Aも法政大学を中退した。 「研究会」・反「日本帝国主義」思想の増幅大道寺とLクラス闘争委員会の主要メンバーが中心となって、1970年8月に旗揚げした「研究会」では、「日本帝国主義(日帝)」がアジアで行ってきた「悪行」について集中的に学習し、過激な思想を増幅させていった。その背景として同年7月7日に出された華僑青年闘争委員会の新左翼各派に対する「決別宣言」から受けた衝撃が大きかった。当時の学習資料として朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』などの書籍が使われた。また、都市ゲリラ戦にも関心を持ち、レジスタンス運動やキューバ革命などの資料などを学習していった。そして、反「日帝」運動のために武力闘争を展開しなければならないという考えに収束されていったが、ゲリラ路線への参加をよしとせず数名が脱退する。そこで、同年11月には大道寺の北海道釧路湖陵高等学校の同級生で、大道寺が高校卒業後に参加していた同高卒業生らからなる社会主義研究会のメンバーであり、当時星薬科大生の駒沢あや子が加わった。 1971年1月には、初の自家製爆弾の実験を行うようになる。 カンパニア闘争・器物破壊活動の開始まず手始めに、大衆に訴えるカンパニア闘争の一環として、「日本帝国主義」の象徴となるものを爆破することになった。 これら三つの器物破壊事件を起こした後、本格的武装闘争に移行することになった。 東アジア反日武装戦線の誕生1972年12月、「東アジア反日武装戦線」という名称が決まった。ただしこの名称は、全ての反「日帝」主義者が共同で使うべきものという認識から、「自分たちのグループ」を表す名称が別途必要であった。彼らは、孤高の存在というイメージから、グループ名を「狼」とした。 1973年は本格的な武装闘争に備えて、爆弾の開発や活動資金の貯蓄に努めた。また自らの主張を世に発信し、闘争の意義や理念を共有するための後続武闘派諸個人・諸グループが、反日武装闘争潮流に合流することを期して、小冊子『腹腹時計』の執筆、出版に着手した(翌年2月に刊行)。 昭和天皇暗殺計画の実行未遂1974年8月14日、昭和天皇が乗車したお召し列車を、鉄橋もろとも爆破しようとした(虹作戦)。しかし決行直前に人に見られたため、実行未遂に終わった(ただし当日通ったお召し列車は、彼らが爆弾を仕掛けようとした鉄橋(客車線)ではなく、貨物線の鉄橋を通行しており、もし決行されていたとしても暗殺は失敗した可能性が高い)。 文世光事件翌日韓国において、朝鮮総連指令を受けた在日韓国人である文世光が当時の韓国大統領朴正煕を暗殺しようとし、文の銃で彼の妻陸英修が銃殺された事件が発生した(文世光事件)。この事件の犯人文世光は、黒ヘルと多少の繋がりがあるとされるプロレタリア軍団傘下の高校生組織「暴力革命高校生戦線」出身の朝鮮総連活動家であった。「狼」は、虹作戦を断念したことを不甲斐なく感じ、文世光に呼応するために新たな作戦に着手する。 連続企業爆破事件同1974年8月30日、三菱重工業東京本社ビルで爆弾を破裂させ、8名が死亡、376人が負傷した(三菱重工爆破事件)。これは「狼」の予想をはるかに上回る惨事であった。事件後に三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係な一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した[15]。 これをきっかけに新たに「大地の牙」「さそり」のグループが合流し、翌1975年5月まで連続企業爆破事件を起こす。具体的には連続企業爆破事件を12件起こし、三菱重工、三井物産、帝人、大成建設、鹿島建設、間組などの海外進出日本企業が「アジア侵略に加担している企業」と標的にされた[5]。 捜査の進捗・一斉検挙「東アジア反日武装戦線」のメンバーとして最初に疑われたのは、当時アイヌ革命を唱えていた太田竜であった。まもなく、太田の潔白は証明されたが、警視庁公安部は太田の思想的人脈のどこかにメンバーがいると推定、彼が関係する「現代思潮社」「レボルト社」に狙いを定めた結果、メンバーの齋藤和・佐々木規夫が浮上し、二人を尾行していくうちに芋づる式にグループの他のメンバーが把握されていった。佐々木は偽装転向として創価学会に入信し、毎日法華経をあげるなど熱心な学会員を装ったものの、公安の目をそらすことはできなかった。 1975年5月19日、主要メンバー7名(大道寺夫婦・佐々木・益永・齋藤・浴田・黒川)と協力者の看護学生1名が逮捕された。齋藤和は逮捕直後に自殺した。また協力者の看護学生の姉[16]及び別の協力者も自殺している。一斉逮捕を逃れた宇賀神寿一と桐島聡は全国指名手配となったが、1982年7月に宇賀神は逮捕された。 2024年1月25日に、神奈川県の病院で偽名で入院[17]していた末期癌患者の男が、自分は桐島だと正体を明かして[18]、警察に身柄を確保された4日後に死亡した。 メンバーの逮捕後→「三菱重工爆破事件 § 逮捕と裁判」も参照
東京地方検察庁は1975年6月28日に起訴したが、日本赤軍によるクアラルンプール事件で佐々木規夫が釈放され、国外逃亡し日本赤軍に合流。激しい獄中闘争を繰り広げるメンバーらと支援者らの妨害工作により裁判の開始は予定より大幅に遅れた[19][20]。ようやく12月25日より裁判が開始されたが、その後も公判は荒れ、遅々として進まず、そうこうするうちに再び日本赤軍によるダッカ事件が発生、大道寺あや子(将司の妻)と浴田由紀子(齋藤の内妻)が超法規的措置により釈放され日本赤軍に合流した。 1979年には獄中のメンバー[注釈 1]によるとみられる「東アジア反日武装戦線KF部隊(準)」による「腹腹時計特別1号」が地下出版され、なおも反日武装闘争を主張していた。 大道寺将司・益永利明に対しては死刑、黒川芳正に無期懲役が確定。協力者とされる女についても爆発物取締罰則違反幇助で懲役8年が確定した(1987年に出所)[21]。1982年7月、逃亡していた宇賀神寿一が逮捕され、懲役18年が確定(2003年に出所)。1995年3月24日に浴田由紀子がルーマニア潜伏中に身柄を拘束され、偽造有印私文書行使の容疑で国外退去処分となり、日本へ向かう旅客機内で逮捕、裁判で懲役20年の確定判決(2017年に出所)。 連続企業爆破事件の犯人グループと直接関係ないとされるが、1975年から1976年にかけて北海道を舞台に起きた一連の爆弾テロ事件(1975年7月19日の北海道警察本部爆破事件、1976年3月2日の北海道庁爆破事件など)にも「東アジア反日武装戦線」名義の犯行声明が出された。北海道庁爆破事件の被疑者として起訴された大森勝久(本人は犯行声明の思想に共感した上で犯行については無実を主張)には1983年に札幌地裁で一審死刑判決、1994年に死刑が確定している(再審請求も2007年に却下)。また太田竜や東アジア反日武装戦線に影響を受けたと見られる爆弾闘争が1970年代後半に相次いだ。未検挙のものもあるが加藤三郎などが逮捕され有罪が確定している。 なお武装闘争思想の源泉となった太田竜であるが、彼自身は1974年に北海道静内町にあるシャクシャイン像の台座を傷つけた器物損壊事件しか起こしていない。 2024年現在、佐々木規夫と大道寺あや子は国際指名手配、桐島聡はさそり事件での公訴時効が成立。獄中にいるメンバーは、再審請求を出したり、獄中での処遇に対し民事訴訟を起こしたり[22]、獄中から著書や論文を発表するなどして獄中闘争を行っていたが、2017年に大道寺将司が死去、また益永利明は2010年に発症した脳梗塞の後遺症から意思疎通が困難になり、2018年以降は、大道寺将司の遺族と益永利明の親族が、法廷闘争を受け継ぐ形で再審請求を行っている[23]。 メンバー東アジア反日武装戦線内には「狼」「大地の牙」「さそり」の3グループがあった[24]。東アジア反日武装戦線メンバーらは、当局側に認知されていた過激派活動家(公然活動家)とは異なり、非公然活動家として表向きには学生や社会人として一般人のような生活を送りながら事件を起こしていたことも世間に衝撃を与えた[25][9]。 昭和50年(1975)に日本赤軍はクアラルンプール事件、昭和52年(1977)にダッカ事件を起こし、両事件の人質との交換で1977年時点で逮捕済みであった著名新左翼11人(戦線メンバー4人)の釈放も要求した。そのため、日本政府(福田赳夫内閣)は1977年10月1日午前3時半以降に超法規的措置で、赤軍による指名釈放を拒否した大道寺将司を除いた3人を釈放した。大道寺あや子(釈放後逃亡中。国際指名手配犯)、佐々木規夫(釈放後逃亡中。国際指名手配犯[26])、浴田由紀子(1995年に発見・再逮捕)らは釈放されると出国し、日本赤軍に合流している[13][14]。
特徴→「腹腹時計 § 冊子の内容」も参照
他派との思想差異1960年代以後、マルクス・レーニン主義を掲げる日本の新左翼党派は、武装闘争など急進主義的な活動を行ったが、その大多数は自らを前衛党と規定して、公然組織による宣伝活動や党員の獲得、労働組合活動なども行い、最終的には労働者や革命実現の主体となる党になる事を主張していた。 これに対して東アジア反日武装戦線は、アイヌおよび朝鮮半島への日本による「侵略史」を学習するなかで、独自の「反日思想」を形成していった。アナキズム的影響の強いアイヌ革命論により、戦後における「現在の日本帝国主義」の破壊を主張し、その後の日本の新社会構想への言及は少ない。 ただし、1977年10月1日の日本赤軍(1969年に結成された共産同系の日本の新左翼党派)による人質作戦を受けた日本政府の超法規的措置で釈放されることを選んだ大道寺あや子(釈放後逃亡中。国際指名手配犯)、佐々木規夫(釈放後逃亡中。国際指名手配犯)、浴田由紀子(1995年に発見・再逮捕)ら全員が同組織に合流している。 非賛同日本人への敵意『腹腹時計』では自分達を含めた現在の日本人を「敗戦後に日本帝国主義を生き返らせた日帝本国人」と規定しており、「反日帝武装闘争を展開することこそが、日帝本国人の緊急任務である」と称している。そして、それに加担しない労働者や海外技術員、海外旅行客も含めた日本の一般大衆を「第一級の日帝侵略者」と断罪していた。また日本帝国主義と非和解的に闘う、真の革命的主体は山谷、釜ヶ崎、横浜寿町などの流動的下層労働者だとも述べた。公然組織を持たない純粋な地下秘密組織であり、自分達の活動を「法と市民社会からはみ出す非合法の闘い」と語るなど、一般層からの広範な支持を受けることは殆ど考慮していなかった。そのため、東アジア反日武装戦線は多数の死傷者を出した三菱重工爆破事件後に出した犯行声明において、「爆死し、あるいは負傷した者は、無関係の一般市民ではない。植民者である。」と「爆破作戦」を正当化した(1974年9月23日に公表した犯行声明)。 更に、自分達の平和で安全で豊かな生活は新植民地主義の下に現地人への更なる収奪と犠牲を強制することで保障されたものであり、そのような状況下で日帝労働者が行う賃上げや待遇改善を求める労働争議は日本帝国主義の侵略に無自覚に加担する反革命労働運動であり、それらを支える既成左翼・新左翼が訴える「プロレタリアート階級独裁」や「暴力革命」といった言説は全くのペテンであると評している。また、合法的活動を行う左翼についても「徹底的に質が悪く、口も尻も軽すぎて信用できない」と批判している。 文世光と三菱重工爆破事件後年、東アジア反日武装戦線「狼部隊」の実質的リーダーであった大道寺将司は、アイヌ支援者に宛てた手紙の中で三菱重工爆破事件について触れ、同月に実施されるはずだった「虹作戦」に頓挫し、「狼」メンバーたちが消尽と無力感を痛切に感じていた。その失敗の翌日(1974年8月15日)に起きた朴正煕暗殺未遂事件の実行者であり韓国の獄中に収監された在日朝鮮人文世光に「事実行為」で連帯しており、一刻も早く呼応しなければならないとの焦りから、「虹作戦」で使用されなかった威力が甚大な鉄橋爆破用の爆弾を流用し、更には爆弾を建物ではなく歩道に設置するといった杜撰な作戦計画を実行してしまったと総括した[38]。
行動従来の日本の新左翼と異なっている行動の特徴として、以下があった。
模倣犯などその後の動き
東アジア反日武装戦線を描いた作品書籍ノンフィクション・評論
東アジア反日武装戦線をモチーフにしたフィクション
映画
テレビノンフィクション
他、ニュース・ドキュメンタリー多数。 東アジア反日武装戦線をモチーフにしたフィクション
戯曲音楽
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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