東京大正博覧会東京大正博覧会(とうきょうたいしょうはくらんかい)は、1914年(大正3年)3月20日から7月31日にかけて、当時の東京府が主催し、東京市の上野公園地(後の上野恩賜公園)をおもな会場として開催された博覧会[1]。入場者数は、7,463,400人、およそ750万人[1]、初日だけでも1万5千人とされている[2]。 おもな施設![]() 上野公園地の台地上に設けられた第一会場には既存の博物館、美術館のほか、教育学芸館、工業館、鉱業館、林業館、水産館など、不忍池一帯の第二会場には農業館、運輸館、染織館、染織別館、外国館、動力館、機械館などが、それぞれ設けられた[3]。当時の絵葉書には、上記のほか、各種の門、平和塔、演芸館、朝鮮館、台湾館、満蒙館、日華貿易品参孜館、南洋館、東京自治会館、美人島旅行館、鉱山模型、拓殖館、東京特設館などが見られる[4]。 第一会場と第二会場の間には、日本初とされるエスカレーターが設けられ[5]、また、不忍池には「ケーブルカー」と称されたロープウェイが架けられた[6][7]。全長400メートルのロープウェイは新技術のシンボルとして人気を博したが、池の上でしばしば立ち往生した。ちなみに定員は9名、料金は1人15銭だった[8]。 演芸館と芸妓会場内では芸妓の存在が目立つもののひとつとなっており、「博覧会新曲の題目や出演者、稽古の様子の写真、踊り順、出演時間についての案内、博覧会 出演をめぐる芸者組合同士の争いなど」が盛んに新聞で報じられた[9]。芸妓たちは場内の演芸館に出演したほか、園遊会などにも姿を見せ、これを捉え、また後述の美人島旅行館の存在も踏まえて、この博覧会を「美人博覧会の観」があると批判する議論もあった[9]。 美人島旅行館美人島旅行館は、第一会場の中心に設けられており[10]、「美人百名募集」の呼びかけに応じた女性たちが、様々な趣向で扮装し展示されたり、コンパニオン(「女看守」と称された)として接遇にあたった[11]。女性たちの中には「教育あるハイカラ婦人」も少なからず含まれていたとされ、人気を博したが、展示の「幼稚」さや、性的な色彩を批判する議論もあった[10][11]。 美人島旅行館は、「大阪天王寺のルナパークにあった「美人探検館」にヒントを得たもの」とされている[10]。 南洋館第一会場に設けられた南洋館では、「人種の展示」が行われ、「ベンガリ種族」、「クリン種族」、「マレー種族」、「ジァヴァ人」、「サカイ種族」[12]、「ダイヤーク人種」[13]など男女25人が、日常生活の様子を見せたり、舞踊などを演じていた[12]。 通俗衛生博覧会この博覧会では伝染病研究所、日本赤十字社などが出展した衛生経済館もあったが、これとは別に、不忍池上の2階建の仮設建築で二六新報社による通俗衛生博覧会が設けられ、人体の臓器などの実物標本や、模型類、写真等が展示された[10]。中には、東京帝国大学医学部から貸し出されたという「高橋お伝の全身の皮膚」なども展示されていた[10]。 エスカレーター第一会場と第二会場を結ぶエスカレーターは、「秒速1尺」の速度で動き、料金は10銭であった[5]。高さは10mほどあったと推定されている[5]。 博覧会の開会に先んじて、1914年3月9日に試運転が行われたため、3月9日は後に「エスカレーターの日」とされた[5]。 国産自動車の展示快進社自働車工場(後の快進社)は、国産部品を多用して製作した、V型2気筒の10馬力の小型乗用車 DAT(ダット)を出品し、銅牌を与えられた[14][15]。 また、宮田製作所(後の宮田工業、モリタ宮田工業の前身のひとつ)は、オートバイ旭号を出品し、銀牌を与えられた[15][16]。 日本最初の自動車メーカーとされる東京自動車製作所は[17]、乗合自動車を出品し、こちらも銀牌を与えられた[15]。 脚注
参考文献
関連項目
外部リンク |
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