東京大学医科学研究所
東京大学医科学研究所(とうきょうだいがくいかがくけんきゅうじょ、英: The Institute of Medical Science, The University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所で、がん、感染症やその他の難治疾患を対象にした最先端の研究と医療を進めることを目的とする研究所である。研究所敷地内に附属病院を有し、国内最大規模の医学研究所[2]である。 共同利用・共同研究拠点に指定されている(「基礎・応用医科学の推進と先端医療 の実現を目指した医科学共同研究拠点」[3])。2001年に近代医科学記念館を設置し、医科学に関する歴史的資料を保存・展示し、最新情報の提供を行っている。 略称は「医科研」「東大医科研」「白金医科研」。英語略称は「IMSUT」。場合にもよるが、旧名称である伝染病研究所から「伝研」という古い略称で呼ばれることもある。 概要![]() 1892年(明治25年)、芝公園に設立された[4]、「伝染病研究所」を起源とする。ドイツ留学から帰国した北里柴三郎に当時日本で受け入れる研究機関がなく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。そんな北里柴三郎を見て、福澤諭吉が私財を投じて設立したのが伝染病研究所である。これは、国内で最初の伝染病研究所である。福澤諭吉の他に森村市左衛門、長與專齋も、北里柴三郎を助けた。 1894年(明治27年)、大日本私立衛生会附属となった伝染病研究所は芝区愛宕町の内務省用地を借り受け、建物を新築リニューアルして移転した[4]。 1899年(明治32年)、伝染病研究所を国に寄付し、内務省管轄の国立伝染病研究所となった。 1914年(大正3年)10月4日に所長にもはかられずに閣議決定し、10月14日、内務省から文部省に移管(勅令)した。 11月5日、この文部省への移管に対し、所長から所員たちが皆、大反対して、それ決定への抗議の意思として総辞職となり、北里柴三郎は新たに私立「北里研究所」を設立して研究を続けた。 1916年(大正5年)4月1日、文部省に移管された「伝染病研究所」は、東京帝国大学附置伝染病研究所となった。 1947年(昭和22年)、厚生省所管の国立予防衛生研究所(現:国立感染症研究所)が設置され、本研究所職員の約半数が移籍した。 国内社会の衛生状態が改善されるのに伴い、1967年(昭和42年)、「感染症・がんその他の特定疾患に関する学理及びその応用の研究」を目的とする医科学研究所に改組した。 1892年の当初から病院を有している。 時計台のある3階建てのゴシック様式風の本館は、関東大震災(1923年(大正12年))のすぐあとに、内田祥三(のちの総長)が耐震・耐火建築研究の実績に立って設計したものである[2]。本館の奥には、8階建ての真新しい病院棟と研究棟が並び、その左右には基礎研究と臨床研究のための建物が密集している。敷地面積約7万平方メートルに、緑に囲まれた公園を有し、2001年、近代医科学記念館を開設した。 沿革
歴代所長
組織研究部門
附属施設研究以下の拠点が2003年度に文部科学省の21世紀COEプログラムに採択された。
ヒトゲノム解析センターを中核とした以下の拠点が2008年度にグローバルCOEプログラムに採択された。
大学院教育医科学研究所は東京大学の大学院教育も担当している。以下の研究科・専攻から大学院生を受け入れている。
所在地・アクセス
→「東京大学医科学研究所附属病院」を参照
テレビ番組
脚注出典
関連項目
外部リンク |
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