東海林さだお
東海林 さだお(しょうじ さだお、男性、1937年10月30日[1] - )は、日本の漫画家、エッセイスト。本名は庄司 禎雄[1](読み同じ)。1974年6月16日から2014年12月31日にかけて毎日新聞朝刊に13,749回連載した4コマ漫画の『アサッテ君』で、一般全国紙の連載漫画の最多掲載記録を作った[3]。他の漫画・エッセイの連載においても、ほとんどが40年超のロングランとなっている。 略歴・人物東海林は1937年10月30日、東京府東京市杉並区高円寺南[2]で生まれた。父は小西六(現在のコニカミノルタ)の社員だった[4]。小学生時代に戦火を避け、父以外の家族で山梨県大月市に疎開[4]。終戦後も東京には戻らず、母方の実家のある栃木県那須郡武茂村(のちの馬頭町)に移り、中学2年時まで過ごす[2][4][5]。このころに野球、漫画、絵物語に親しみ、漫画家を将来の目標に定める[4][6]。 東京都立立川高等学校卒業[2]。現役で早稲田大学政経学部および慶應義塾大学法学部を受験し失敗[4][7]。1浪後、再び早大と慶大に出願。計9学部を受験し、そのうち早大第一文学部美術史科を受験する予定だったが隣の窓口にロシア文学科があり、「女のコとつき合うとき、美術史よりも露文のほうがモテるのではなかろうか[7]」という理由で急に出願先を変更。そのロシア文学科に合格し、入学を果たした。 大学2年時、創設されたばかりの早稲田大学漫画研究会に入部し、1年上級のしとうきねおと園山俊二、1年下級で同い年の福地泡介らと出会う[4][8]。福地泡介によれば[9]、東海林だけは講義にほとんど出ず、当時八王子市に移り酒販店を経営していた実家[4][10]からの通学で疲れ切り、そのまま大学近くの福地の下宿部屋に直行してそこで眠り込むことが多かったという。福地は、東海林が「実家で売れ残って変色した日本酒を、世話になっている礼のつもりかよく持ってきた」と回想している。東海林はこのころ、「一生懸命ユーモアを探してた」といい、太宰治、木山捷平、鹿島孝二、北杜夫らの小説や、5代目古今亭志ん生の落語に熱中した[4]。 1959年に東海林・福地ほか、他校の学生漫画家を加えた4人で「グループ'59」を結成し、一般誌に合作漫画の売り込みを行ったが、東海林の採用は『美しい十代』(学習研究社)における1ページ作品数回にとどまるなど、グループ活動はうまくいかず、数か月で解散に追い込まれている[4][11]。 早大中退後、東海林は『週刊漫画サンデー』編集部のアルバイト[4]や黄小娥のアシスタント[4]、実家の手伝い[10]などの傍ら、1964年に結婚[4]。その後、プロとして成功した福地の新居をたずねた折り、玄関先に置かれた牛乳瓶を見て「漫画を描いて牛乳をとろう[12]」と思い立ち、原稿の持ち込み活動を開始。1967年、『週刊漫画TIMES』の『新漫画文学全集』で連載デビューする。 1968年[4]より漫画の傍ら、イラスト付きのエッセイの執筆でも活動。エッセイ集の刊行冊数は漫画作品の単行本を上回っている。特に1970年代以降、マンガは大部分が新聞雑誌掲載のみで単行本化されていないのに対しエッセイはほぼ全部が単行本化、文庫本化されている。 東京ドームを借りて試合をするほどの草野球愛好者でもある。ポジションは内野手[4]。仕事に対するスタンスについても東海林は、「毎回いいものが書けるわけがない。野球と同じで三割打てればいいんだ」「プロだから残り七回全部三振はダメだけど、バントとかポテンヒットとかで誤魔化しながらね」と、野球にからめた比喩を語っている[13]。 「ビールの最良の『あて』は串カツである」と多くのエッセイで記述している。 2015年に見つかった肝臓癌を手術で治し、その体験を2017年にエッセイ『ガン入院オロオロ日記』(文藝春秋社)として出版した。酒は医師に止められているが、最近は「ノンアルコールビールがおいしくなった」という[14]。 受賞歴
作風・評価取材活動・アイデア
漫画
エッセイ
作品連載刊行作品は後述
著書書名(共著の場合は括弧内に共著者)、初版発行日(単行本、文庫版の順。特記なき場合はすべて単行本は文藝春秋発行、文庫版は文春文庫所収。) 漫画
アサッテ君#刊行リスト参照。
エッセイ
その他
キャラクター提供脚注
関連人物 |
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