古今亭志ん生 (5代目)
五代目 古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう、1890年6月5日 - 1973年9月21日)は、明治後期から昭和期にかけて活躍した東京の落語家。本名は美濃部 孝藏[1]。生前は落語協会所属。出囃子は「一丁入り」。戦後を代表する落語家の一人と称される。 家族
なお、十代目馬生と三代目志ん朝の間に男児がいたが、生後まもなく夭折した。この事実は十代目馬生の墓所を移設する際、馬生と志ん朝の遺骨の間に小さな骨壷が発見されたことで判明した。 生涯出生1890年(明治23年)、東京市神田区神田亀住町(現・東京都千代田区外神田)の生まれ。父・美濃部戍行(みのべもりゆき)、母・志う(しう)の五男[注釈 1]。出自は高位の士族。生家は菅原道真の子孫を称する徳川直参旗本であった美濃部家で、祖父は赤城神社の要職を務めた[注釈 2]。明治維新の際の支給金を父の代ですべて使い果たし[注釈 3][注釈 4]、孝蔵が生まれた頃父は警視庁で巡査をしていて貧乏暮らしだった。しかし子供の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てに寄席通いをした。 下谷区下谷北稲荷町(現在の台東区東上野5丁目)に転居し、1897年(明治30年)、下谷尋常小學校に入学。1901年(明治34年)、小学校卒業間際の11歳の時、素行が悪いため退学させられ、奉公に出される。奉公先を転々とし、朝鮮の京城(現在のソウル)の印刷会社にいたこともあるが、すぐに逃げ帰った。1904年(明治37年)には北稲荷町から浅草区浅草新畑町四番地(現在の台東区浅草1丁目)に移転し、ここを本籍にした[4]。 落語との出会い博打や酒に手を出し、放蕩生活を続けた末に家出[5]。以来、二度と実家へ寄り付かず、親や夭折した兄弟の死に目にも会っていない。この頃、芸事に興味を抱くようになり、天狗連(素人やセミプロの芸人集団)に出入りし始める[4]。1907年(明治40年)頃に三遊亭圓盛(2代目三遊亭小圓朝門下、本名:堀善太郎)の門で三遊亭盛朝を名乗るが、まだプロの芸人ではなくセミプロであった[4]。同時期、左の二の腕に般若の刺青を入れたという[4]。 1910年(明治43年)頃、2代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太との前座名を名乗る[6][7][8][9]。5代目志ん生自身は、当時名人と称された4代目橘家圓喬の弟子であったと生涯語っていた[10]。1916年から1917年(大正5年から6年)頃、三遊亭圓菊を名乗り、二つ目になる[4]。1918年(大正7年)、4代目古今亭志ん生門に移籍し、金原亭馬太郎に改名。その後、1921年(大正10年)9月に金原亭馬きんを名乗り、真打に昇進する[4]。 結婚1922年(大正11年)11月、清水りん[11]と結婚。1924年(大正13年)1月12日に長女・美津子、1925年(大正14年)10月7日に次女・喜美子(後の三味線豊太郎。1981年没)、1928年(昭和3年)1月5日に長男・清(後の10代目金原亭馬生)が誕生。笹塚から夜逃げして本所区業平橋のいわゆる「なめくじ長屋」に引っ越したのはこの年である[注釈 5]。なお、この間に(1924年・大正13年)3代目古今亭志ん馬を名乗っている。 当時の実力者だった5代目三升家小勝に楯突いたことで落語界での居場所を失い、講釈師に転身する。謝罪して落語家に戻るが一向に食べられず、当時人気者であった柳家金語楼の紹介で初代柳家三語楼門下に移るが、今度は師匠の羽織を質入れして顔を出せなくなった。その後、詫びがかなって復帰したものの、前座同然の扱いで貧窮極まる。腕はあったが愛嬌がなく、周囲に上手く合わせることもできず、結果として金銭面の苦労を強いられた[12]。この頃の5代目志ん生は身なりが悪く、「死神」「うわばみの吐き出され」などのあだ名で呼ばれ、仲間内や寄席の関係者から軽んじられて、寄席でも浅い出番での出演だった。場末の寄席(いわゆる「端席」)を廻ってどうにか糊口を凌いでいたという[13]。一部の好事家からは評判が良かったが、売れ出すのはもう少し先のことになる[14]。 この頃、「染物屋の若旦那」である宇野信夫の家によく出入りして世話になっていた(当時、宇野は浅草・橋場に親の貸家があり、その借家料で生計を立てながら劇作家の修行をしていた)。 馬生・志ん生襲名1932年(昭和7年)、再び3代目古今亭志ん馬を名乗る。落語界入りしてから長らく売り出せず苦労した5代目志ん生だが、この頃になってようやく少しずつ売れ始める。1934年(昭和9年) 9月に7代目金原亭馬生を襲名。1938年(昭和13年)3月10日、次男・強次(後の3代目古今亭志ん朝)が生まれる[4]。1939年(昭和14年)に5代目古今亭志ん生襲名。朝太から志ん生襲名まで16回改名した(詳細は#改名遍歴参照)。 1941年(昭和16年)、神田花月で月例の独演会を開始。客が大勢詰めかけるほど好評だったが、この頃の5代目志ん生の客は噺をじっくり聞いてくれるような良い客ではなかったという[15]。 満洲へ〜帰国後1945年(昭和20年)、陸軍恤兵部から慰問芸人の取りまとめの命令を受けた松竹演芸部の仕事で、同じ落語家の6代目三遊亭圓生、講釈師の国井紫香(2代目猫遊軒伯知)、比呂志・美津子の名で夫婦漫才をやっていた坂野比呂志らと共に満洲に渡る[16][17][注釈 6][注釈 7]。満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事を請け負ったがそのまま終戦を迎えて帰国出来なくなり、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら生死ギリギリの生活を強いられる。 1947年(昭和22年)1月12日、命からがら満洲から帰国。なお、圓生よりも先の帰国となった[注釈 8]。同月27日帰宅[4][注釈 9]。 同年4月28日には、帰国した志ん生、圓生を歓迎するため、両名および金馬、文楽、権太楼による五人会が日劇小劇場で行われた[18]。帰国がニュースに取り上げられるなど注目され、後は一気に芸・人気とも勢いを増し、寄席はもちろん、ラジオ番組出演なども多くこなす大変な売れっ子となった。あちこちで仕事を掛け持ちするので、寄席の出番よりも自分の都合を優先してしまい、周囲からわがままな仕事ぶりを非難されることもあった[19]。この頃から人形町末廣で余一の日[注釈 10]に独演会を催すようになった。8代目桂文楽と並び称されて東京の落語家を代表する大看板として押しも押されもせぬ存在となり、全盛期を迎える。 1953年(昭和28年)にはラジオ東京専属、翌年にはニッポン放送専属になる[注釈 11]。1956年(昭和31年)6月、自伝『なめくじ艦隊』を発行。5代目志ん生当人は読むのはまだしも書くのは不得手で、弟子の初代金原亭馬の助による聞き書きであった[20]。同年12月、『お直し』の口演で芸術祭賞を受賞する。 会長就任![]() 1957年(昭和32年)、8代目文楽の後任で落語協会4代目会長に就任。1963年(昭和38年)まで会長を務める。 5代目志ん生の後任の会長を選出する際、一部で2代目三遊亭円歌を後任に推す動きがあり、2代目円歌本人も会長就任に意欲を示していたが、5代目志ん生は「人気や活躍の期間では円歌の方が上だが、芸の力量では圓生の方が上」と判断し、力量重視で6代目圓生を後任に推した。一時は対立を回避するために8代目文楽が会長に復帰することで人事は決着したが、1964年(昭和39年)に2代目円歌が亡くなったため、結局、翌1965年(昭和40年)に6代目圓生が会長に就任する[21]。 病気1961年(昭和36年)暮れ、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれるが、口演中に脳出血で倒れる[22]。3か月の昏睡状態の後に復帰するも、その後の高座からは以前の破天荒ともいうべき芸風が影を潜めた。この時を境に5代目志ん生の「病前」「病後」とも呼ばれる。療養を経て復帰した5代目志ん生は半身不随となっていたため、講談で使用する釈台を前に置き、釈台に左手を置いて高座を務めた。 1964年(昭和39年)、自伝『びんぼう自慢』を刊行。さらに5年後に加筆して再刊されたが、いずれも小島貞二による聞き書きである。同年11月、紫綬褒章受章。 事実上の高座引退1967年(昭和42年)、長女が1964年(昭和39年)に亡くなった2代目円歌の息子と結婚したため、一時は円歌の遺族と姻戚関係があった[注釈 12]。 1968年(昭和43年)、上野鈴本演芸場初席に出演。これが最後の寄席出演となった。同年10月9日、精選落語会に出演。これが最後の高座になる。この時、「二階ぞめき」を演じていたはずが途中で「王子の狐」に変わってしまったことをマネージャーである長女に指摘されたため以降高座に上がらなくなったが、5代目志ん生当人は引退した気などなく、少し休んでやがて高座に復帰する意志は持っていた[23]。 1971年(昭和46年)12月9日、妻・りんが死去。12月11日に葬儀が行われる。その翌日には8代目文楽が死去。晩年の文楽は寄席や落語会に出演せず引退同様の状態であったが、高座に上がる気持ちは持ち続けていた。この年、すでに高座を去っていた文楽がウイスキーを土産に志ん生を訪ねて歓談し、別れ際に「二人会の相談をしよう」と呼びかけていたと家族が証言している。妻の葬儀でさえ涙を見せなかった志ん生だが、文楽の訃報を聞いて「皆、いなくなってしまった」と号泣した[24]。 1973年(昭和48年)9月21日午前11時半[25]、自宅で死去。83歳没。戒名は「松風院孝誉彩雲志ん生居士」。墓所は文京区小日向の還国寺。現在では同じ墓に息子の3代目志ん朝も眠っている(一時、同じく息子の10代目馬生も同じ墓に眠っていたが、2011年に墓所を移転)。 年表5代目志ん生の無名時代の経歴は、資料が乏しい上、当人の記憶もあやふやだったために諸説ある。下記#改名遍歴と食い違う部分があるが、脚注に示した史料のままとした[26]。
人物芸について![]()
酒にまつわるエピソード
放送専属契約
改名遍歴5代目志ん生は幾度も師匠替え・改名をしていることで有名である。度重なる改名の背景には、借金から逃亡する目的と一向に売り出せない状況の打破を願う意味があったと言われている。改名遍歴には諸説あるが、ここでは一般的に知られている遍歴を記載する[57]。
4代目古今亭志ん生は「志ん生」襲名のわずか1年後、ガンで没した。「志ん生」を襲名した歴代の落語家はみな早死にしているとされるため、5代目を襲名する際に危惧する声が上がったが、5代目志ん生は「5代目は長生きして看板を大きくすれば良い」と取り合わなかったという[58]。 メディアにおける5代目志ん生7代目馬生時代から5代目志ん生襲名前後の頃、落語全集の中に実演の速記が掲載され始め、「講談倶楽部」などの当時の落語雑誌に小噺や新作落語が多数発表されている。ただし、新作落語は雑誌発表用に作ったもので、実演用ではない[59]。 1932年(昭和7年)7月以降の3代目古今亭志ん馬時代、『元帳』を日本ポリドール蓄音器から発売。7代目金原亭馬生時代の1935年(昭和10年)、日本ビクター蓄音器からSPレコードで『氏子中』を発売した。3代目古今亭志ん馬時代から5代目古今亭志ん生襲名後まで、十数枚SPレコードを発売している。戦後出演したラジオ東京、ニッポン放送、NHK、電通制作地方局向け番組などのラジオ放送用の音源や東宝名人会での録音を大量に残し、それらをもとに各レコード会社がLPレコードやカセットテープで商品化した。21世紀に入った現在もなお、CDなどの媒体で流通しており、5代目志ん生の落語を聞くことは容易である。 その一方で、残っている映像は少ない。映画では『銀座カンカン娘』に落語家・桜亭新笑役で出演し、短縮版だが「替り目」を7分近く演じている(また、一人で「疝気の虫」を稽古しているシーンもある)。この映像は、現在確認されている限りでは、5代目志ん生が演じる落語の映像としては最も古いものである。NHKでの落語の口演映像としては「風呂敷」「岸柳島」[60]「おかめ団子」「鰍沢」が残されている。「鰍沢」は病後の録画で、短く編集されている。 2003年にTBSラジオ&コミュニケーションズが発売した10枚組CD「咄家一代古今亭志ん生」に、特典映像として1971年(昭和46年)末に収録した志ん生のVHS映像が添付されている。内容は「新年の挨拶&小咄(カラー映像)」「羽衣の松」。2005年に講談社が発行したDVD BOOKS「志ん生復活!」9巻に、日本テレビによる「テレビの志ん生」が三本収録されている。内容は「劇中落語『厩火事』」「小沢昭一によるインタビュー」「紫綬褒章伝達式」。 ラジオ番組では落語の中継や録音の他に、インタビューやラジオドラマに出演。数は少ないがニュース映画やテレビ番組にも出演している。 また1981年にはNHK特集で「びんぼう一代~五代目古今亭志ん生~」と題して現存する映像や当時の著名人に取材したドキュメンタリーが放送された。 2023年、NHKが大河ドラマ「花の生涯」をAIによりカラー化した技術を用い、志ん生の「風呂敷」の白黒映像を全編カラー化。9月1日にSKIPシティビジュアルプラザで映像の公開と番組収録が行われ、特別番組「カラーで蘇る古今亭志ん生」がEテレで9月17日に放送された。司会は古今亭文菊、ゲストは池波志乃・五街道雲助。スクリーンに向かった形で語る三人の後ろの客席には、志ん生のひ孫にあたる金原亭小駒をはじめ、古今亭・金原亭の若手二ツ目[61]が並んで顔を揃えた[62]。制作統括は河合千尋。 また、同時期の讀賣新聞では編集委員の千葉直樹が「古今亭志ん生没後50年」を記念して親族や関係者に思い出を取材した特集を連載[63]。志ん生の動画ニュースのweb上への掲載や[64]、生前に新聞紙面に掲載された写真のうち数枚は石川博(早稲田大学理工学術院教授)のAI技術によりカラー化された[65]。 2023年12月末~2024年1月にかけて、NHKが「風呂敷」に加えて「巌流島」もAIカラー化、前回放送しなかった三人のトークも加えてBS4K・BS・Eテレで放送した。案内は牛田茉友アナウンサー。また、BS4KとBSでは番組の後に「超入門!落語THE MOVIE 古今亭志ん生スペシャル」も放送、「火焔太鼓」「犬の災難」が古今亭の流れをくむ落語家の口演により映像化された。 映画
出演番組落語の中継・録音番組を除く。
著書
5代目志ん生を扱った作品
※5代目志ん生の声にテロップを入れた上で林家正楽(3代目)の紙切り作品を落語一席につき100~300枚ほど組み合わせて映像化。監修:大石稀哉(有限会社風樂)、解説:和田尚久。
得意演目持ちネタの多さでも有名で、この点では5代目志ん生と6代目圓生が戦後東京落語の双璧とされる。限られた噺を徹底的に磨き抜くため演目の少なかった8代目文楽とは対照的である。
など多数 追善興行
弟子
系図注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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