松井須磨子
松井 須磨子(まつい すまこ、明治19年〈1886年〉3月8日〈戸籍上は11月1日[1]〉 - 大正8年〈1919年〉1月5日)は、日本の新劇女優、歌手。本名は小林 正子(こばやし まさこ)。 二度の離婚、美容整形とその後遺症に苦しめられながらの名演、島村抱月とのスキャンダル、日本初の歌う女優としてのヒット曲と発禁騒動、そして抱月死後の後追い自殺と、その波乱の短い生涯は多くの小説や映画、テレビドラマとなっている。 生涯![]() 離婚、女優への執念長野県埴科郡清野村(現在の長野市松代町清野)に士族小林藤太(旧松代藩士)の五女(九人兄妹の末っ子)、小林正子として生まれる。数え年6歳の時、上田町の長谷川家の養女となり、1900年に上田の尋常小学校を卒業する。しかし養父が亡くなったため実家に戻る。実家に戻った年、実父も亡くなった。数え年17歳の春に麻布飯倉の菓子屋「風月堂」に嫁いでいた姉を頼って上京した後、戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学する[2]。 1903年、親戚の世話で千葉県木更津の旅館兼小料理屋・鳥飼万蔵と最初の結婚をするが[3]、病気がちを理由に舅に疎まれ[4]、1年で離婚している。この結婚で万蔵から性病をうつされ、その病院通いを通じて東京高等師範学校の学生・前沢誠助(1880ー1923)と知り合い再婚、前沢が1908年に東京俳優養成所の講師となったことから女優を志願するようになる[3]。 この頃から平凡な日常から脱却したいと思うようになり女優を志す。この時期に俳優養成学校に願書を提出し面接を受けるが、鼻が低くて顔全体の印象が平坦で華やかさがないことを理由に入学を拒否される。しかし、女優になるという夢を諦めきれなかった須磨子は、当時としては最新の技術であった、鼻筋に蝋を注入する隆鼻術(美容整形手術)を受けている。これにより、現在まで知られる顔になった。その後、俳優養成学校へ入学し念願の女優となった。「日本初の整形美人女優」と称されることがある。しかし、後年はその後遺症に苦しめられる。注入した蝋は比較的軟らかいもので、体温程度でも不安定な状態になり鼻筋からずれてしまうことが多かった。その度に自らの手で押さえていたという。そのようなことが頻繁にあったため体が拒絶反応を起こして鼻を中心に顔全体が腫れて炎症を起こすことがあり、時には痛みで寝込むほどであったが、当時は抜去する手術が確立されていなかったため冷水で絞った手拭いで患部を冷やすことしかできず、ひたすら耐えるしかなかった。恋仲にあった島村抱月にその醜態を指摘されることがあったという。 二度目の離婚、日本初の「歌う女優」と発禁騒動1908年、同郷の埴科坂城町出身の前沢誠助と結婚する。東京高等師範学校地歴科を卒業した前沢は、その年の11月に「東京俳優養成所」の講師になり、日本史を担当した。 1909年、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生となる。演劇研究所の女優募集は、インテリ女性を対象にした当時としては画期的なもので、小学校しか出ておらずさしたる美貌の持ち主でもなかった須磨子には難関であったが、その熱心さと体格と声の良さから別科生として採用され、2年後に卒業した[3]。家事がおろそかになることが多く、1910年10月、前沢と離婚。 1911年5月、文芸協会の第一回公演『ハムレット』でオフェリア役に抜擢され、帝劇デビューを果たして話題を集めた[3]。同年9月、『人形の家』の主人公ノラを演じて認められたが、同作の訳者で演技指導をしていた島村抱月との恋愛が問題となり、文芸協会を追われ、1913年、抱月や沢田正二郎らと芸術座を旗揚げした[3]。1914年、『復活』(トルストイ原作、抱月訳)のカチューシャ役が大当たりし、人気女優となった。須磨子が歌った主題歌「カチューシャの唄(復活唱歌)」(抱月作詞・中山晋平作曲)のレコードが当時2万枚以上を売り上げる[5]大ヒットとなった。須磨子は日本初の歌う女優となった。 1915年、島村抱月とともにロシア帝国のウラジオストクを訪れ、ロシアの劇団との合同講演をプーシキン劇場で行い大好評を博した。また後に流行歌となる「ゴンドラの唄」(吉井勇作詞・中山晋平作曲)を歌唱した[6]。 1917年、『生ける屍』の主題歌「さすらいの唄」(北原白秋作詞・中山晋平作曲)が大ヒット。レコードは5〜6か月間に27万枚を売り上げた[7]。 1917年に発売したレコード「今度生まれたら」(北原白秋作詞)では、歌詞の中にある「かわい女子(おなご)と寝て暮らそ」の部分が当時の文部省により猥褻扱いされ、須磨子の出身地の長野県をはじめ、山梨県・群馬県・神奈川県・静岡県など各地で発禁となり[8]、日本における発禁レコード第1号となった。皮肉にもかえって売れ行きは伸び、レコード売上は27万枚に達したという[8]。 他にも、アメリカ曲を原曲とする「ばらの娘」や、『沈鐘』の劇中歌「森の娘」などのヒット曲を出す[8]。 自殺1918年11月5日、スペイン風邪で抱月が病死すると、2ヶ月後の1919年1月5日、東京市牛込区横寺町(現在の東京都新宿区横寺町)にあった芸術倶楽部の道具部屋で首吊り自殺を遂げた[9][10]。有楽座で「カルメン」を公演している最中の出来事で、芸術座は解散に至った[11]。 抱月と不倫関係にあった須磨子は、遺書で抱月の墓へ一緒に埋葬されることを望んでいたが抱月の妻に拒否され、須磨子の墓は長野市松代町清野の小林家墓所(生家の裏山)に、また、新宿区弁天町の多聞院には分骨墓がある。 主な出演記録文芸協会時代 明治44年(1911年)
明治45年(1912年)
大正2年(1913年)
芸術座時代 大正2年(1913年)
大正3年(1914年)
大正4年(1915年)
大正5年(1916年)
大正6年(1917年)
大正7年(1918年)
大正8年(1919年) 著作
松井須磨子を扱った作品書籍
映画
ドラマ
舞台
浪曲朗読脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
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