林伊佐緒
林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 1995年9月29日)は、日本の歌手・作曲家。日本歌手協会4代目会長。 山口県厚狭郡王喜村(現下関市)生まれ。明治大学中退。1975年に紫綬褒章、1983年には勲四等旭日小綬章を受章。没後、功績により従五位を追贈されている。 経歴父の林正二は王喜村長を務めた。旧制興風中学校時代には陸上400メートルと水泳自由形の選手。音楽も好きで、体育学校か音楽学校を志望していたが、母に反対され、明治大学商科に進む。しかし、大学への通学途中に東京高等音楽学院があることに気付き、四谷分教場ピアノ科に籍を置いて両方に通うようになり、やがて大学を中退。1934年、郷里に戻って徴兵検査を受けた後、再び上京。ニットーレコードの歌手試験に合格し、同じ明大出身の作曲家・金井貞雄に「同窓だからマイフレンドだ」と名付けられた芸名・マイフレンドの名で、「旅の雨」で本格的に歌謡界へデビュー。しかし、この芸名は大不評を買い、3ヶ月後には本名・林勲の漢字を変えた林伊佐緒に芸名を改めた。また、藤川光男の名前ではジャズを吹き込んでいる。1936年にキングレコードへ移籍し、亡くなるまで専属だった。 1937年、新橋みどりと歌ったコミックソング「若しも月給が上ったら」がヒットし、一躍名を知られた。デビュー当初から自身の歌を自ら作曲し持ち歌の大半も自身の作曲であり(ただし他人の曲も歌った)、日本最初のシンガーソングライターと言われている。 1939年には講談社が募集した「出征兵士を送る歌」の作曲部門に当選したのを皮切りに、大日本産業報国会制定の「産業戦士の歌」、読売新聞社制定の「世紀の若人」や、「十億の進軍」「少年兵を送る歌」といった作曲公募にも第1等に当選して名を上げた。他にも「男なら」「くろがねの力」(コロムビアから出されたヒット盤とは別曲)なども作曲し(時には自ら歌い)、ヒットさせた。 戦後も1950年には「ダンスパーティーの夜」、1954年「真室川ブギ」、1955年「高原の宿」、1957年「そっとこのまま」を大ヒットさせ、戦前~戦中以上の活躍をした。昭和30年代はキング専属の作曲家としての活動も目立ち、三橋美智也には「リンゴ村から」「リンゴ花咲く故郷へ」「母恋吹雪」、春日八郎には「海猫の啼く波止場」「長崎の女」「ロザリオの島」などを書き、大ヒットさせた。(尚「長崎の女」は後に荘学忠によって『午夜梦回时』のタイトルでカヴァーされ、マレーシアで広く知られる様になった。)「てなもんや三度笠」の主題歌も林の作曲である。昭和40年代に起こった懐メロブームでは、地方の小さな会からテレビ・ラジオ番組まで大小隔てなくこまめに出演し、再び歌手としての面もクローズアップされた。 スケールの大きな堂々たる歌唱で知られ、その声量は1970年代の懐メロ番組で「出征兵士を送る歌」を歌った時に、マイクから少し離れて歌っているのにもかかわらず、バックコーラスを圧倒していたというエピソードがある。また1972年には戦後27年間もグアム島のジャングルに潜み続けて話題となった横井庄一元軍曹の帰国を歓迎する歌を発表したこともある。 NHK紅白歌合戦には第1回から、計11回出場している(詳細は下記参照)。 日本歌手協会理事長を長く務めた後、1989年4月から1995年3月までは日本歌手協会会長として後輩歌手のために奔走し、レコード使用料の分配問題などに取り組んだ。会長職を退いた後は相談役に就任した。平成以降、年々自分と同年代・後輩の歌手が相次ぎ亡くなったことに対し「私もすっかりシーラカンスですな」「次は僕の番だ」とジョークを飛ばす一方、テレビ番組で在りし日の同年代歌手と自分が歌う映像を見て号泣したこともあった。 1994年8月にはNHK第26回思い出のメロディー(8月13日放送)に出演、「高原の宿」を歌唱し健在ぶりを見せた。亡くなる3日前にラジオの仕事(TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」にゲスト出演)をするなど、最晩年まで精力的活動を続けたが、1995年9月29日、肺炎のため死去した。83歳没。東京都文京区の護国寺桂昌殿にて葬儀が営まれた。 代表曲
作曲
NHK紅白歌合戦出場歴
脚注注釈
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