根津啓吉
根津 啓吉(ねづ けいきち、1874年(明治7年)2月15日 - 1954年(昭和29年)12月4日)は、山梨県出身の地主[1]、政治家、実業家。貴族院議員を務めた。 略歴明治7年2月15日[注釈 1]、山梨県巨摩郡築地新居村(現在の中巨摩郡昭和町)で、父・内藤宇兵衛(思温)、母・とよの間に四男として生まれた[4]。1893年(明治26年)に同志社普通学校を卒業、この頃にキリスト教の洗礼を受けた[5]。1896年(明治29年)には同志社ハリス理科学校(現在の同志社大学理工学部)を卒業した[6]。京都滞在は通算9年に及んだ[7]。 卒業後、茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)[4]、同下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)[6]で教職を務めた。 1903年(明治36年)2月、山梨県東山梨郡平等村の根津一秀の長女たか(たか子)と結婚し、婿養子となった。このとき、キリスト教信仰を続けることを婿入りの条件としたという[5]。根津家は東武鉄道総帥であった根津嘉一郎 (初代)の実家であり、啓吉にとっては嘉一郎は養叔父にあたる。翌1904年に養父・一秀が死去し、1905年(明治38年)9月に根津本家の家督を相続した[4]。 1907年(明治40年)7月に平等村会議員に初当選、1910年(明治43年)に再選され、1913年(大正2年)7月の満期まで務めた[4]。これと併せて、1911年(明治44年)10月から1915年(大正4年)10月まで山梨県会議員を務めた[8]。 1921年(大正10年)11月12日に、多額納税者の互選により貴族院議員に補欠当選[9]。会派は茶話会であった[6]。1923年(大正12年)9月14日に自ら願い出て[10]辞任した[11]。 実業面においては、養叔父である根津嘉一郎のもとで大日本麦酒、東武鉄道、関東瓦斯の取締役を務めた[2]。また地元山梨県の事業にも関与し、有信銀行[注釈 2]の取締役、笛吹水力電気株式会社の監査役を務めた。 1942年(昭和17年)東山梨郡山梨村の初代村長に就任[8]。太平洋戦争中には大政翼賛会の村支部長であったため、戦後は公職追放の対象となった[12]。晩年には養従弟である須田宣の次男栄三郎を養子とし[2]、根津本家の後継とした[13]。 1954年(昭和29年)12月4日、胃潰瘍のため山梨市内の病院で死去[6][14]。 初代根津嘉一郎の実家でもある根津啓吉邸(山梨市正徳寺296)は、2003年(平成15年)11月に土地及び建物[注釈 3]が根津栄三郎ら遺族から山梨市に寄付され、2008年(平成20年)10月11日に根津記念館として開館した[15]。 栄典親族
脚注注釈出典
参考文献
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