樋脇町塔之原
樋脇町塔之原(ひわきちょうとうのはら[2])は、鹿児島県薩摩川内市の大字[3]。旧薩摩国薩摩郡樋脇郷塔之原村、薩摩郡樋脇村大字塔之原、薩摩郡樋脇町大字塔之原。郵便番号は895-1202[4]。人口は2,533人、世帯数は1,082世帯(2020年10月1日現在)[5]。 地理薩摩川内市のほぼ中央部、樋脇川中流域に位置しており、川沿いに沖積平野が広がっている[6]。旧樋脇町の中央部に位置し、旧樋脇町の行政及び教育の中心地であった。字域の北方に樋脇町倉野、中村町、北方から東方にかけて入来町副田、東方に入来町浦之名、南方に樋脇町市比野、西方に永利町がそれぞれ接している。 字域の南東にある丸山は藺牟田池を囲む藺牟田火山と同時期の55万年前に形成された溶岩円頂丘(溶岩ドーム)であり、角閃石安山岩からなり、山頂南側斜面には柱状節理が見られる[7]。山腹は常緑広葉樹林となっている[8]。 字域の中央部には薩摩川内市立樋脇小学校や薩摩川内市役所樋脇支所などが所在しており、南部には薩摩川内市立樋脇中学校が所在している。 河川
山岳歴史先史時代塔之原の南西部の沢牟田では縄文時代早期の遺跡が発見されている[6]。沢牟田は四方を山に囲まれた舌状台地にあり、石器や黒曜石、石鏃、石槍、石匙、剥片土器などが多数出土している[10]。また村子田では縄文時代中期のものとみられる阿高式土器や土師器などが出土している[11]。 岩下地区の字板井川には地下式板石積石室の古墳が存在したことが確認されており、前方後円墳で10アール程度の規模となっている[12]。 塔之原の成立と中世塔原という地名は鎌倉時代より見え薩摩国入来院のうちであった[6]。塔之原は塔原名、塔原郷、塔原村とも呼ばれた[6]。平安時代から鎌倉時代初期までは伴氏の一族であった寄田氏の勢力下であった[6][13]。千葉秀胤が一定地域の地頭を統轄する職である惣地頭に補任されたのち寄田氏は改易されたが、入来院氏(渋谷氏とも)の入来院定心が地頭に補任されると寄田氏は再び名主に補された[6][13]。しかし、入来院氏による支配が強化される中で寄田氏と入来院氏の対立は深まった[14]。しばらくして再び寄田氏は改易された[13]。 南北朝時代の末期になると地頭職も入来院氏に渡り[14]、戦国時代には樋脇城主の樋脇氏が明応年間から大永年間まで治め、永禄までは入来院氏の代官たる宮里氏が統治を行った[14]。 麓の南西には入来院氏が川内方面の敵に備えるために構築した樋脇城があったが、応永3年(1396年)に島津元久の軍に攻められた[15]。樋脇城について薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」では以下のように記述している[16]。
文禄4年(1593年)に入来院氏が大隅国湯之尾(現在の伊佐市の一部)に移封され、以後は北郷氏の統治下となったが[14][17]、慶長18年(1613年)に入来院氏の入来院重高が清敷領主として復封され、清敷のうちであった塔之原もその支配下となった[17]。 近世の塔之原![]() 江戸時代には薩摩国薩摩郡樋脇郷(外城)のうちとなった[14]。当初は清敷郷に属していた[14]。村高は「御秘文雑集」及び「天保郷帳」では3,882石余[14]、「郡村高辻帳」では3,822石余[15]、「三州御治世要覧」では3,177石余[15]、「旧高旧領取調帳」では3,358石余であった[14]。 万治2年(1659年)に清敷郷は二分され、市比野村・塔之原村・倉野村・久住村・中村・楠元村の6村より新たに清敷郷が画され、薩摩藩直轄領となった[18]。「平佐由緒書」によれば万治2年以後、塔之原村の半分は平佐郷の北郷氏持切となっていた[15]。延宝9年(1681年)に清敷郷は樋脇郷に改称した[15]。樋脇郷の地頭仮屋が樋脇川左岸の天神に置かれており、仮屋を中心に麓・野町が形成されていた[14][15]。 また、寛文3年(1663年)には鹿児島郡鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島市池之上町)にある島津氏菩提寺であった福昌寺の第13代住職嶺室によって塔之原村本庵に玉淵寺が開山した[15]。玉淵寺について薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」では以下のように記述している[16]。
町村制施行以降1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行されたのに伴い、樋脇郷の区域にあたる塔之原村、市比野村、倉野村の区域より薩摩郡樋脇村が成立した[19]。それまでの塔之原村は樋脇村の大字「塔之原」となった[14]。1892年(明治25年)に警察官の駐在所が設置された[20]。この駐在所は2016年(平成28年)に中村駐在所・市比野駐在所・入来駐在所・藺牟田駐在所と統合され入来町浦之名に薩摩川内東交番として統合されるまで存在した[21]。 1924年(大正13年)10月20日には宮之城線のうち川内町駅(現在の川内駅)から樋脇駅までの区間が開通し、樋脇駅が塔之原に設置された[22]。1926年(大正15年)には樋脇駅から宮之城駅までの間が開通した[23]。1940年(昭和15年)11月10日に樋脇村が町制施行し樋脇町となった[19][14]。1959年(昭和34年)には樋脇駅と入来駅の間に上樋脇駅が開設された[22]。 第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月30日には塔之原の樋脇駅付近がアメリカ軍の空襲を受け、火災が発生した[24]。本土決戦に備えて祢地山付近に大日本帝国陸軍の部隊によって物資を格納するための軍壕が掘られていたほか、部隊の輸送に使われていた樋脇駅などの鉄道施設が攻撃対象となった[25]。 1987年(昭和62年)には字域内を通っていた日本国有鉄道の宮之城線が廃止され、同時に字域内にあった樋脇駅、上樋脇駅は廃止された[26][22]。 2004年(平成16年)10月12日に樋脇町が川内市、薩摩郡東郷町、入来町、祁答院町、下甑村、上甑村、里村、鹿島村と新設合併し薩摩川内市が設置された[27]。この市町村合併に伴い設置された法定合併協議会において大字名については「従前の町名を従前の大字に冠したものをもって、大字とする。」と協定され、旧町名である「樋脇町」を従前の大字名に冠することとなった[28]。 合併当日の10月12日に鹿児島県の告示である「 人口以下の表は国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。
文化財市指定
施設公共
教育郵便局寺院
その他
教育塔之原には薩摩川内市立樋脇中学校及び薩摩川内市立樋脇小学校が設置されており、かつては鹿児島県立樋脇高等学校が設置されていた。 高等学校鹿児島県立樋脇高等学校は、1948年(昭和23年)に上東郷村立東郷高等学校(のちの鹿児島県立東郷高等学校)の樋脇教場として設置された[58]。1950年(昭和25年)には東郷高等学校から独立し鹿児島県樋脇高等学校となり、翌年1951年(昭和26年)には鹿児島県立となった[58]。2009年(平成21年)3月31日に鹿児島県立入来商業高等学校と統合し入来町副田の入来商業高等学校跡地に鹿児島県立川薩清修館高等学校が新設されたのに伴い、閉校となった[59]。 →詳細は「鹿児島県立樋脇高等学校」を参照
中学校1947年(昭和22年)に樋脇町立樋脇中学校として設置された[60]。当時は樋脇小学校、樋脇青年学校、公会堂に教場を設置し、1949年(昭和24年)に普通教室が竣工し教場は廃止された[60]。 1971年(昭和46年)に樋脇中学校及び市比野中学校を廃し、新たに樋脇中学校として設置され、それまでの各中学校は教場となった[61]。1973年(昭和48年)には新校舎が完成し樋脇教場及び市比野教場が完全に統合された[61]。 →詳細は「薩摩川内市立樋脇中学校」を参照
小学校薩摩川内市立樋脇小学校は、明治4年に外城第四郷校として創設され、1876年(明治9年)には樋脇小学校と改称した[62]。1887年(明治20年)には樋脇尋常高等小学校となり[62]、1941年(昭和16年)には国民学校となった[63]。第二次世界大戦終戦後の1947年(昭和22年)には樋脇小学校となった[63]。 →詳細は「薩摩川内市立樋脇小学校」を参照
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[64]。
交通道路は字域の中央を鹿児島県道335号市比野東郷線が鹿児島県道42号川内加治木線より分岐した後は南北に通り、薩摩川内市役所樋脇支所付近で鹿児島県道333号川内祁答院線と分岐し、西方に進路を変える。県道333号は西方より北方に進路を変える。東方に鹿児島県道346号山田入来線が南北に通っている。 かつては、塔之原を東西に日本国有鉄道の宮之城線が通っており、樋脇駅と上樋脇駅が設置されていたが、1987年(昭和62年)に第2次特定地方交通線に指定され廃止された。また、樋脇駅から鹿児島県道335号市比野東郷線までを結ぶ「鹿児島県道334号樋脇停車場線」が存在していたが、2005年(平成17年)3月29日に県道の路線としては廃止された[65]。 道路鉄道バス
脚注
参考文献
座標: 北緯31度49分14.1秒 東経130度23分5.4秒 / 北緯31.820583度 東経130.384833度 |
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