武士沢友治
武士沢 友治(ぶしざわ ともはる、1978年2月9日 - )は日本中央競馬会 (JRA) ・美浦トレーニングセンター所属にしていた元騎手。 戸籍上の表記は旧字体が含まれた武士澤だが、JRAでは旧字体での登録が認められていない為、一部の地方競馬を除いて競馬中継や新聞・雑誌では新字体の武士沢に修正して表記される。 経歴中学時代に騎手に憧れを抱くも、卒業後は競馬学校には入らず[2]、いったん青森県立三本木農業高等学校に入学し馬術部に所属。高校進学の経緯について武士沢は近辺には牧場がなく「馬に乗ったこともなかったので、馬術競技が盛んな同校にて、馬に慣れようとした」と語っている。 その後、高校を1年で中途退学。競馬学校騎手課程を経て、1997年中野渡清一厩舎所属騎手としてデビュー。以後2010年10月の厩舎解散まで、同厩舎に所属し続けた。競馬学校では13期生で、同期には美浦には勝浦正樹、村田一誠、板倉真由子、栗東には秋山真一郎、武幸四郎、松田大作らがいる。 1997年3月8日の中山3Rでグリーンジョージに騎乗し初勝利。デビュー初年度から2年目までは障害レースにも騎乗し、重賞初騎乗は同年の東京障害特別(秋)だった(障害は通算33戦未勝利)。 毎年10勝以上とコンスタントに勝利を重ね、2002年のNHKマイルカップでGI初騎乗。2003年6月28日の函館11Rをカツヨスパイラルで制しJRA通算100勝を達成。 2006年11月5日、アルゼンチン共和国杯でトウショウナイトに騎乗しデビュー10年目で重賞初勝利。トウショウナイトとはキャリア38戦中34戦でコンビを組み6勝を挙げたが、2008年4月30日に調教中に右前脚を骨折し予後不良となった。のちに「あの事故は僕にとって転機でした。馬に対する考え方を180度変えてもらいました。またナイトのような馬に巡りあいたいですね」と語っている[3]。 2008年8月31日、新潟記念を16番人気アルコセニョーラで制し重賞2勝目。2着に2番人気のマイネルキッツ、3着に14番人気のトウショウシロッコが入線し、三連単は100万円を超える大波乱となった。元々この日は札幌で騎乗する予定だったが、お手馬のダイワマックワンがキーンランドカップで除外対象となり、アルコセニョーラ陣営から依頼が舞い込んでの騎乗だった。「一瞬の脚を生かす競馬が合うと思ったので直線残り400まで我慢したら、思った通りの脚を使ってくれました」と語っている[4]。 2008年にはベンチャーナインでクラシック三冠レースに騎乗した(皐月賞13着、ダービー9着、菊花賞6着)。 2008年10月30日にOLの女性と約7年間の交際を経て結婚した[5]。 2011年10月16日の東京では10鞍に騎乗し、5Rで2番人気リーサムダイチ、8Rで8番人気スギノブレイド、10Rで3番人気ツルマルネオ、12Rで11番人気マイネルエルドラドで勝利し、1日4勝の固め打ちをした(他に3着2回)[6]。 2013年6月に故郷・三戸町の町役場を訪れ、スポーツ振興のために町に100万円を寄付した[7]。2013年には自身最多の24勝を挙げた。 2016年11月13日、福島記念を7番人気マルターズアポジーで逃げ切って制し重賞3勝目。 2017年2月19日、小倉大賞典を4番人気マルターズアポジーで逃げ切って制し重賞4勝目。これがJRA通算299勝目だった。 それから約5ヶ月勝てず148連敗した後、7月15日の福島10Rを8番人気デルマサリーチャンで制しJRA通算300勝を達成[8]。同じ日に福永祐一が2000勝を達成したため、「翌日の新聞では福永さんの記事が紙面の半分くらいを占めていて、俺はその20分の1くらいで、探しちゃいましたよ」と語っている[9]。 2017年8月13日、関屋記念を7番人気マルターズアポジーで逃げ切って制し重賞5勝目。ゴールの瞬間、珍しくガッツポーズを見せた[10]。2017年はデビュー以来最も少ない4勝に終わったが、そのうち2勝が重賞での勝利だった。 2018年9月23日、中山6Rでカグヤヒメに騎乗し、史上36人目のJRA通算10000回騎乗を達成した[11]。 2024年3月6日、同月10日付で引退し、JRA競馬学校で教官となる予定とJRAから発表された[12]。 2024年3月10日、最終騎乗となった中山12R(キーチズカンパニーで10着)終了後、中山競馬場のウィナーズサークルで引退セレモニーが行われた[13]。セレモニーの途中からは、新たに就任するJRA競馬学校教官のブレザーと帽子を身につけ、りりしい姿を披露し、マイクを渡されると「中山競馬場でデビューして中山競馬場で引退を迎えられることが、とても感慨深いです」とコメント[13]。 エピソード
おもな騎乗馬
騎乗成績
脚注
関連項目 |
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