沼田多稼蔵
![]() 沼田 多稼蔵(ぬまだ たかぞう、1892年(明治25年)4月18日 - 1961年(昭和36年)11月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴広島県出身。漢学者・沼田良蔵の二男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業。 1920年(大正9年)4月、参謀本部勤務となり、関東軍幕僚付、参謀本部員(内国戦史課)、陸軍省軍務局課員などを経てイタリア駐在となり、1927年(昭和2年)7月、歩兵少佐に昇進。1928年(昭和3年)8月、整備局課員(動員課)となり、1931年(昭和6年)8月、歩兵中佐に進級。1932年(昭和7年)12月、関東軍参謀(特務部)に就任し、イタリア大使館付武官を経て、1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進した。1936年(昭和11年)8月、参謀本部付となり、日中戦争に歩兵第39連隊長として出征し徐州会戦などに参加。1938年(昭和13年)6月、第11軍参謀副長に転じ、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級した。 1939年(昭和14年)1月、第11軍参謀長に着任し、企画院第1部長に転じ、第1部長任期中に総力戦研究所構想案を練ったとされている。1941年(昭和16年)3月、陸軍中将に進んだ。同年4月、第3軍参謀長に就任し満州に赴任。1942年(昭和17年)8月、第12師団長に親補された。1943年(昭和18年)10月、第2方面軍参謀長となり、1944年(昭和19年)5月、ビアク島を視察中に米軍の上陸に遭遇し、臨時に防戦の指揮を執ったが、玉砕寸前に同島を脱出した。南方軍総参謀長として終戦を迎えた。 1945年(昭和20年)8月28日、ラングーンでイギリス軍との降伏文書に調印[1]。 1947年(昭和22年)11月、戦犯容疑により巣鴨プリズンに収容された。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受け[2]、同年4月、橘丸事件で重労働7年の判決が言い渡されたが、1950年(昭和25年)12月に仮釈放された。 1955年(昭和30年)9月24日、防衛庁顧問に就任している[3]。 栄典
親族
著書
脚注参考文献外部リンク |
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