参謀本部 (日本)![]() 当初は画面左の建物(旧館)がイタリア人美術家のカッペレッティの設計により西南戦争後に建設に着手、1881年(明治14年)に落成し、参謀本部として供用されていたが、1894年(明治27年)の明治東京地震により若干の被害を蒙った。これを受け、1898年(明治31年)に参謀本部の機能は北側(画面右)の建物(新館)に移転し、この写真の撮影時期には、発足当初一部を間借りしていた陸地測量部と参謀本部第四部戦史室が全面的に占用するに至っていた。 参謀本部(さんぼうほんぶ、旧字体:參謀本部)は、大日本帝国陸軍の軍令機関である[1]。ドイツ帝国陸軍の軍制に倣って、1878年(明治11年)に陸軍省参謀局が独立する形で創設された[2]。 政府省庁である陸軍省とは独立した形で大元帥である天皇に直隷して陸軍を統帥せしめ、作戦計画並びに指揮及び遂行する等を職務とした[2]。ただし、1893年(明治26年)の参謀総長の職掌改定により、戦時における軍令は大本営の所掌となった[3]。 なお、1886年(明治19年)から1888年(明治21年)までの間、旧日本海軍の軍令機関が旧日本陸軍と統合されていた時期を除いた、旧日本海軍の軍令機関(明治21年乃至明治22年の海軍参謀本部を含む)については軍令部を参照。 当初は、陸軍省等とともに彦根藩井伊家上屋敷跡三宅坂一帯(現在は、憲政記念館等が立地する国会前庭(東京都千代田区永田町))に置かれたが、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦の1941年(昭和16年)12月8日から15日にかけて、陸軍省、教育総監部、陸軍航空総監部ともども、三宅坂一帯から市ヶ谷台の陸軍士官学校跡地(現在、防衛省が所在)に移転した。 沿革
陸軍(省)参謀局 (明治4年-明治7年)明治4年(1871年)7月に「機務密謀ニ参画シ地図政誌ヲ編輯シ並ニ間諜通報等ノ事ヲ掌ル」ことを目的に兵部省に陸軍参謀局(国土地理院の前身の一つ)が設けられた。局長には兵部大輔が充てられた。翌年の明治5年には兵部省が陸軍省と海軍省に分割され、陸軍参謀局は陸軍省参謀局として存置された。 明治6年(1873年)3月23日に陸軍省条例[7]が発せられ、参謀局が「陸軍文庫・測量地図・絵図彫刻・兵史並兵家政誌蒐輯」を掌る第六局に改称された(4月1日施行)が、明治7年2月22日に第六局を廃し再び参謀局が置かれた[8]。 歴代参謀局都督
歴代第6局長
参謀局 (明治7年-明治11年)明治7年(1874年)6月18日に「参謀局條例」[9]が制定され、同日付で参謀局が設立された。これが日本の軍令機関独立の嚆矢である。この参謀局は、三宅坂に置かれて、陸軍省に隷属していた。参謀局長には将官が充てられた。 参謀科(兵科の一つとして設置されていた。)の将校は、或いは陸軍省内局に勤務していても、或いは外国派遣の公使に属していても(後の駐在武官)、皆参謀局に籍を置いており、局長は参謀科将校の進退等について全て関与していた。
歴代参謀局長参謀本部 (明治11年-明治19年)明治11年(1878年)12月5日に「参謀本部条例」[10]が制定され、陸軍省の一局であった参謀局が「参謀本部」と改称され、独立機構となった。後の昭和時代には、統帥権の独立により軍が政府の統制から暴走して行ったが、陸軍を自分の権力基盤とするために参謀本部の独立を推進したのが山縣有朋であった[11]。参謀本部長には陸軍将官が充てられた。海軍将官でなかったのは山縣の強い意向があったためである。
歴代参謀本部長
歴代参謀本部次長参謀本部 (明治19年-明治21年)1886年(明治19年)3月18日に陸海軍統合参謀部門として「参謀本部」が設立され、その内部に陸軍部及び海軍部が置かれることとなった。 この参謀本部は、陸海軍軍事計画を司るところであって、各監軍部、近衛、各鎮台、各鎮守府、各艦隊の参謀部並びに陸軍大学校、軍用電信隊を統括した。 参謀本部長は、皇族が勅任されるものと定められ、有栖川宮熾仁親王(陸軍大将、在任:1886年3月18日 - 1888年5月14日)が任じられた。このときの参謀本部長は親任官とされた[12]。本部次長は陸海軍将官からそれぞれ1人が充てられた。戦時を除くとはいえ、日本近代史で唯一、陸海軍統合の統帥組織であった。 参謀本部陸軍部
歴代参謀本部次長参謀本部海軍部→詳細は「軍令部」を参照
支部「支部」とは外局を意味する用語である。
陸軍参謀本部 (明治21年-明治22年)明治21年勅令第25号[13]により、1888年(明治21年)5月12日に、旧参謀本部陸軍部は「陸軍参謀本部」と改称された。陸軍参謀本部は、参軍の下で参謀事務を行うものとされた。そして、陸軍参謀本部長は参軍に対して責任を負うものとされた。 参軍
陸軍参謀本部長
参謀本部 (明治22年-昭和20年)概要新「参謀本部条例」(明治22年勅令第25号)[14]により、1889年(明治22年)3月7日に、旧陸軍参謀本部は「参謀本部」と改称された。 参謀総長の位置づけは、当初は「陸軍大将若クハ陸軍中将一人ヲ帝国全軍ノ参謀総長ニ任シ天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参シ参謀本部ノ事務ヲ管理セシム」(明治22年勅令第25号当時の第2条)とされ、参謀総長は海軍の軍令も管轄するものとされていた。参謀本部長を参謀総長と改名したのも軍令部長より一段上のポストであることを明確にするためである。ところが、この規定は海軍側の強い反発を生み、1903年の「明治36年勅令第293号戦時大本営条例改訂」により、陸海軍の軍令機関が並列対等と修正された。 啓蒙活動日本史に関する複数の書物を編纂していた。主に戦国時代のものが多く、「大日本帝国陸軍参謀本部が、英知を結集して膨大な資料を解析・編纂」と称された。桶狭間の合戦、長篠の合戦、関ヶ原の合戦などの著名な戦闘を扱っている。内容は、当時の歴史学的には否定されるべきものではないが、合戦史ばかりを採用しており、国威発揚の一環と思料される。ただ、昭和に入り、高柳光寿らがその記述の誤謬を指摘している。 歴代参謀総長
参謀総長は、陸軍大臣・教育総監と並び「陸軍三長官」と呼ばれた。また、三組織合わせて「省部」と呼称した。 廃止時の組織内部部局
一時期に設置された部局この他、明治29年(1896年)~昭和18年(1943年)まで第4部が、明治32年(1899年)から明治41年(1908年)まで第5部が存在した。
参謀本部による昭和20年敗戦時の資料の焼却と保管1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送により昭和天皇の終戦の詔勅(ポツダム宣言受諾による日本の降伏)が下ると政府から資料の焼却命令が出され、3日3晩に渡って夜空を焦がした[15][16][17]。当時、参謀本部支那事変史編纂部長石割平造は「これでは陸軍史は消えて行く」と嘆じ、燃え残った資料をいくらか蒐集し保管した[18]。この焼け残り資料の管理を復員した外山操が引き継ぎ、今日では防衛庁(現:防衛省)戦史室に寄贈され戦史の編纂に使用されている[19]。 1996年4月、自衛隊市ヶ谷駐屯地での尾張藩上屋敷跡の発掘調査中、地下2m付近より焼却されたはずの資料が大量に焼け残った状態で発見された。発掘された史料は、主として参謀本部第3課(編成・動員課)が保管していた文書で編成・動員などに関する御裁可書、編成表、電報綴等が多い。戦史部は「市ヶ谷台史料」と命名し順次修復、公開をしている。 外局交通最寄り駅は都電9系統および11系統の参謀本部前停留所。9系統に駅が設置された理由は、沿線の青山一帯は佐官以上の軍人向けに安価で払い下げられた住宅地が密集していたため。11系統への乗換駅でもある。大正9年(1920年)に参謀本部前停留所が廃止されると、三宅坂停留所が最寄り駅になっている。 脚注
参考文献関連項目外部リンク |
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