活水中学校・高等学校 (かっすい ちゅうがっこう・こうとうがっこう, Kw assui Junior High School and Kw assui High School)は、長崎県 長崎市 宝栄町に所在し、中高一貫教育 を提供する私立 の女子 中学校 ・高等学校 。高等学校においては、約30名が中学校からの内部進学、約100名が入試を経て入学する、併設混合型中高一貫校 。
明治 初期に開港都市で設立されたミッションスクール の一つで、関西より西の西日本では最古である。
高等学校では、普通科 でありながら音楽の専門的な科目を履修する普通科音楽コースと、英語 の授業を中心としたカリキュラムの英語科が設置されている。英語科は長崎県私立学校審議会により2026年(令和8年)3月に廃止予定[ 1] 。
概要
歴史
1879年 (明治12年)、アメリカメソジスト監督教会 婦人外国伝道協会の宣教師エリザベス・ラッセル によって創立された女学校 を前身とする。1887年 (明治20年)に初等科・中等科・高等科・神学科・音楽科・技芸部を置き、初等教育 ・中等教育 ・高等教育 の総合教育機関となっている。1951年 (昭和26年)、中学・高校は現校地の宝栄町に移転。1979年 (昭和54年)、高校に普通科音楽コースを設置。2003年 (平成15年)、高校に英語科を設置。系列の活水女子大学 へは例年3割ほどが進学している。教育理念・方針にはキリスト教 プロテスタント の精神が反映されている。2009年 (平成21年)に創立130周年を迎えた。
校名の由来
「
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る
」
—聖書(ヨハネによる福音書 4章14節より)
スクール・モットー
「知恵と生命との泉 - 主イエス・キリスト - に掬(むす)べよ」
理念
「隣人を思いやる愛を持った女性・個性豊かな女性・品位と知性あふれる女性」
校章
キリスト教 の十字架 の中央に、校名である「活」の文字を置いている。
校歌
作詞は相沢照子、作曲はオリーブ・カリーによる。歌詞は4番まである。
設置形態
活水中学校
活水高等学校 - 全日制課程 2学科
英語科
普通科 3コース - 特別進学コース・総合進学コース・音楽コース
沿革
女学校・高等女学校時代
1879年 (明治 12年)
1880年 (明治13年)
4月 - 南山手のリンガー館(現在 グラバー園 の旧オルト住宅)に移転。
7月 - 生徒数が9名となる。
1881年 (明治14年)8月 - ヨハネによる福音書 第4章14節[ 2] に因み、校名を「活水女学校 」と定める。
1882年 (明治15年)10月 - 東山手13番地に新校舎「ラッセル館」が完成し、移転。生徒数が43名になる。
1887年 (明治20年)4月 - 初等科 ・中等科・高等科・撰修科・神学科・音楽科・技芸部を設置。
1911年 (明治44年)
4月1日
中等科と高等科を統合し、大学部を設置。それとは別に専門部を設置(活水女子短期大学 ・活水女子大学 の前身)。
初等科を小学部と高等女学部 に改組。
1918年 (大正7年)7月 - 校章を制定。
1919年 (大正8年)3月 - 活水女学財団法人 の設立が認可される。大学部を専門学校令 により活水女子専門学校 に改組。
1923年 (大正12年)12月 - 初代校歌を制定。
1926年 (大正15年)10月 - 鉄筋コンクリート造4階建ての新校舎が完成。
1942年 (昭和 17年)4月 - 二代目校歌を制定。初代校歌は創立記念日の歌とする。
1944年 (昭和19年)2月 - 女学校高等女学部を「活水高等女学校 」に改組。
新制中学校・高等学校
1947年 (昭和22年)4月1日 - 学制改革 (六・三制の実施)により、新制中学校 を併設し、「活水中学校 」と命名。
1948年 (昭和23年)4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校を廃止し、新制高等学校「活水高等学校 」が発足。
1950年 (昭和25年)4月1日 - 学制改革により、活水女子専門学校が活水女子短期大学 となる。
1951年 (昭和26年)
4月1日 - 私立学校法 の施行により、活水女学財団法人が学校法人活水学院 (現法人名)となる。
9月 - 竹の久保町(現:宝栄町)の旧鎮西学院 校舎を改修し、使用を開始。短期大学との併設を解消。
1979年 (昭和54年)
4月1日 - 高等学校に「普通科音楽コース」を設置。
12月 - 長崎市民会館において活水学院創立100周年記念式典を挙行。
1981年 (昭和56年)5月15日 - 新校舎(4号館)が完成(この年四年制大学活水女子大学 が開学)。
1984年 (昭和59年)
4月5日 - 寄宿舎が完成。
7月 - 第1回中学サマーキャンプを実施。
1987年 (昭和62年)4月 - LL教室を一新。
1991年 (平成3年)9月 - 4号館を増築。
2003年 (平成 15年)4月1日 - 高等学校に「英語科」と「普通科国公立進学コース」を新設。
著名な出身者
存命人物
故人
被爆校舎
原爆で損壊した鎮西学院校舎。戦後、同学院より譲り受け大規模な修繕を行った上で、活水学院中学・高校1号館となった。
現在の校地には太平洋戦争 中までは鎮西学院が所在していた。2011年まで使用された本校1号館は、当時原爆投下 の被害を受けた後に修復されたものである。同館は1998年に長崎市からBランクの「被爆建造物 」に指定されたが、学校側は老朽化と耐震性などを理由として早ければ2011年に取り壊す予定であることが2009年7月に報じられた[ 3] 。
保存を求める声も上がっていたが、長崎市の田上市長は「学校は『できるだけ痕跡が残るような形を検討する』と前向きに考えてくれている」と取り壊しを容認する見解を示した[ 4] 。
上記報道通り2011年に取り壊されることとなり、同年2月に当校舎での最後の卒業式が行われ[ 5] 、7月より取り壊しが開始された[ 6] 。解体工事中の同年9月、敷地内の地下から戦争中の防空壕 の遺構が発見された[ 7] [ 8] 。校舎解体後、跡地はオブジェを配した芝生の広場となり、校舎の外壁の一部が保存されている[ 9] 。解体中に発見された防空壕跡は、安全と費用の両面からの判断で埋め戻されたが、今後その存在を示す予定としている[ 9] 。
交通アクセス
脚注および参照
参考資料
「活水学院創立125周年記念写真集 1879−2004 Kwassui Gakuin 125th Anniversary」(2005年(平成17年)5月、活水学院)
関連項目
外部リンク