深井正樹
深井 正樹(ふかい まさき、1980年9月13日 - )は、山梨県南巨摩郡増穂町(現:富士川町)出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(FW)。 来歴プロ入り前増穂小学校在学中に増穂サッカースポーツ少年団にてサッカーを始める。6年生で全国大会出場も経験。 増穂中学校に入学、甲西トラベッソ(旧甲西町・現南アルプス市)に入団。クラブの「ドリブルが得意な選手を育てる」指導方針の元、ドリブルという武器が生まれる。 1996年、山梨県立韮崎高校に進学。1、3年時に全国選手権に出場し、いずれも早期敗退のため全国的には無名であったが、1回戦で敗退した3年の選手権終了後には「もっと見てみたい選手だった」と紹介する記事も存在した[1]。 1999年、駒澤大学に進学。巻誠一郎とコンビを組み「大学サッカー史上最高の2トップ」と謳われた。ユニバーシアード代表メンバーにも選出され、北京大会にて金メダル獲得。 第81回天皇杯全日本サッカー選手権大会(2001年)ではJ1のジュビロ磐田を相手に2得点を挙げた。 2002年、駒澤大学を関東大学リーグ初優勝に導き、巻誠一郎と並び12得点で得点王にもなった。 鹿島アントラーズ2003年、鹿島アントラーズに入団。3月22日のJ1・1stステージ第1節浦和レッドダイヤモンズ戦で初出場。同年11月8日J1・2ndステージ第12節ガンバ大阪戦で初ゴールを記録。この試合で2得点をあげた。 2004年、背番号が前年引退したFW長谷川祥之が背負っていた「11」に変更された。 2005年、FWアレックス・ミネイロとMF野沢拓也が2トップに定着し、左右の攻撃的MFでの出場機会が徐々に増えていった。 2006年、イタリアから帰国したFW柳沢敦ら最前線は争いが激しく、引き続きMFとしての起用が主となった。 2007年、FWとしての出場機会を求め、アルビレックス新潟に期限付き移籍をしたが、度重なるケガを含め期待された結果を出す事が出来ず、期限付き移籍期間満了となった。 2008年は、名古屋グランパスに期限付き移籍したが、出場機会に恵まれなかった。 ジェフ千葉2008年8月に残留争い中のジェフユナイテッド千葉へ期限付き移籍した。千葉では大学時代の盟友・巻誠一郎と再びツートップを組む。巻との相性の良さは健在で、千葉でのデビュー戦となった9月14日の東京ヴェルディで先制点の深井がJ1リーグ通算12999ゴールを、追加点の巻がJ1リーグ通算13000ゴールを挙げた。また、名古屋戦や浦和戦でも決勝点を決める活躍を見せ、J1残留に貢献した。 2010年、ロシア・プレミアリーグのアムカル・ペルミへの移籍が決まった巻誠一郎の退団セレモニーが行われた7月31日の大分トリニータ戦でこの年唯一となる得点を決めた。このゴールについて、江尻篤彦監督は「巻の魂が深井に乗り移っていた」とコメントし、巻もセレモニー中の挨拶で「個人的には深井がゴールを決めてくれたことが本当に嬉しかったです」と語った。 2011年、開幕戦から左サイドのレギュラーとペナルティーキックのキッカー(1番手が深井、2番手が米倉恒貴と決まっていた[2])を務め、自身初の2桁得点となる14得点。リーグ得点ランク3位タイの成績を残した。また、第10節愛媛戦でのゴールがスカパー!のJリーグアフターゲームショーの視聴者投票によってJ2年間ベストゴールに選ばれた。 2014年1月10日、シーズン中に負った怪我の影響もあり、千葉との契約満了が発表された[3]。同年は無所属のままリハビリを行ない、その間にはJ2第11節で千葉が開催したイベント「フクアリ満員大作戦!!」のPR部長を務めるなど、千葉の広報活動も行なっていた[4]。 V・ファーレン長崎負傷が完治した2014年6月より、V・ファーレン長崎に加入[5]。 SC相模原2016年よりSC相模原に完全移籍により加入した[6]。シーズン終了後、現役を引退[7]。 引退後2017年より古巣・ジェフ千葉の普及コーチに就任[8]。 2019年より母校・駒澤大学の総合教育研究部スポーツ・健康科学部門助授および同大学サッカー部コーチに就任[9]。 人物所属クラブ
個人成績
その他公式戦
代表歴指導歴
脚注
関連記事
外部リンク
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