清水次郎長 (講談)『清水次郎長』(しみずのじろちょう)、または『清水次郎長伝』(しみずのじろちょうでん)、『次郎長伝』(じろちょうでん)[1]は、清水次郎長を主人公とする講談および浪曲の演目。本項目では清水次郎長を題材とする映画・テレビドラマ・歌謡曲等についても記述する。 ヤクザの抗争劇を講談師・三代目神田伯山が人気の読み物に仕上げた。また、二代目広沢虎造が浪曲化(フシ付け)し、ラジオ放送されたことで人気を得た[2][3]。 清水二十八人衆一連の作品群で成立した、「清水二十八人衆」と呼ばれる登場人物一覧を記す[4][5]。
講談のちに「次郎長伯山」の異名を得る三代目神田伯山は、『次郎長伝』、『夕立勘五郎』、『野狐三次』等の「三尺もの(侠客物)の上手」と讃えられる[9]。次郎長伝の評判により、俗に「次郎長伯山」とまで呼ばれるようになった。周囲八丁の寄席の客を奪うほど人気を得て「八丁荒らし」の異名をとる[10](八丁荒らしは人気の芸人への一般的なほめ言葉で使われる)[11][12] 山本鉄眉こと天田愚庵が養父の清水次郎長生前の1884年(明治17年)4月に発行したお手盛りの『東海遊侠伝』と、「荒神山の喧嘩」に同行した講釈師・松廼家太琉(売講子清龍[13])から譲渡された『清水次郎長』の「点取本」も参考にして作った[10][14][15]。 松廼家太琉は、『鬼面山音五郎』『小柳平助』『鋼ヶ関金太郎』などを創作し[15]、伯山は初演となる1907年(明治40年)5月、東京市本所区亀沢町(現在の東京都墨田区両国)の福本亭にて『名も高き富士の山本』の題で初めて読んだ[10]。 清水次郎長を題材にした映画は、伯山の初演から4年後の1911年(明治44年)10月4日に公開された『清水の次郎長』がもっとも早く[16]、尾上松之助が主演、牧野省三が監督し、日活の前身の1社である横田商会が製作・配給した[17]。ただし伯山の『次郎長伝』との関係は不明である[16]。明確に伯山の名をクレジットした映画作品は、後述するフシ付けが2代目勝太郎や二代目虎造により為され、有望な若手となった頃、講談速記本発行の1924年(大正13年)6月30日公開の『次郎長外伝 大瀬半五郎』(監督賀古残夢、脚本食満南北)、同年10月10日公開の『清水次郎長 義兄の巻』(監督・脚本沼田紅緑)を待つことになる[16][18][19]。 実在の人物である本座村為五郎、穴太徳次郎、神戸の長吉、竹居安五郎、黒駒勝蔵らは、次郎長を引き立てるために悪人や卑怯者として描かれた[15][20]。追分三五郎、小走の半兵衛はここで初めて登場する架空人物である[21]。都田の吉兵衛を「都鳥の吉兵衛」としたのも伯山である[22]。「清水二十八人衆」も『東海遊侠伝』には表現されておらず、初めて数えられた。伯山の講談本『清水次郎長』(1924年)では、大政、小政から鳥羽熊、庵原の廣吉まで10人挙げて、石松を思い出し、追分三五郎は出てこない[23][24]。 [21][4][5]。 斬った張ったの殺戮が繰り広げられるヤクザの抗争に過ぎなかった次郎長の実際のエピソードを、「見てきたようなウソを言う」講釈師の基本的性格を遺憾なく発揮して、日本人好みの義理人情に厚い痛快な話に塗り替え「次郎長は正義」という人気の読み物に変えたことに功績があるとされる[21][25]。 ラジオ放送で講談の初登場は1925年(大正14年)3月5日、この伯山の「次郎長伝」であった。「大瀬半五郎」を読んでいる[26]。 3代目神田伯山の録音は、ボックス・セット『講談黄金時代』(コロムビア COCF-14976)などで聴くことができる。 講談速記本速記本化の最初については不明だが、国立国会図書館蔵書等では、講談本のピークをだいぶ過ぎた[27] 1924年6月24日、今村信雄が書き起こし、武侠社が発行した『清水次郎長』がもっとも早い時期のものである[28]。
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不明[28]。
浪曲浪曲化については、初代玉川勝太郎が先に取り掛かり、得意芸としており[29]、2代目玉川勝太郎は『次郎長伝』を継承したが[30]、1922年(大正11年)に襲名した同じ三尺物を得意とするライバル、二代目広沢虎造に人気を奪われる事になる[31]。 三代目伯山の『次郎長伝』に聴き惚れ、伯山の行く先々の講釈場を追いかけ回した末、ほだされた弟子の神田ろ山によって伝授された[32]。 「虎造節」の『清水次郎長伝』は、『秋葉の火祭り』から『荒神山の血煙り』までの全24篇[33]。虎造は小音ながら力まない陰影豊かな、それでいてぬくもりのある芸風がラジオで特に受け[34]、勝太郎の「天保水滸伝」と虎造の「清水次郎長伝」がそれぞれ代名詞的存在として認識されたの1935年(昭和10年)以降である[35][36]。 「馬鹿は死ななきゃ直らない[37][38][39]」の名文句で知られる浪曲「清水次郎長伝・石松代参」のうち「石松三十石船」の部分、江戸っ子の清水二十八人衆を強い順に並べる「言い立て」は、二代目広沢虎造の十八番中の十八番、浪曲の代名詞と呼べるほどよく知られ、伯山の土台の元に虎造が加えた工夫である[40][41]。江戸っ子が石松に対し、清水一家で一番強いのは「大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎、大野鶴吉、桶屋の鬼吉、三保の松五郎、問屋場の大熊、鳥羽熊、豚松、伊達の五郎、石屋の重吉、相撲常、滑栗初五郎……[42][43]」と挙げていくなかで、小政はまず冒頭に大政と対になって登場する。16人挙げたところで、大瀬の次に石松を忘れていたことを思い出す、という筋である。 1924年(大正15年)3月22日に売り出し中の虎造の浪曲がラジオ初放送され、演目は次郎長伝のうち「次郎長と黒駒勝蔵」。その後も毎年のように次郎長伝が放送された[44]。「次郎長もの」を全国的にブーム化したのが広沢虎造の浪曲で、昭和10年から戦争をまたいで昭和三十年代に至るまで、江戸っ子虎造の歯切れのよい節回しと独特の語りの組み合わせで、次郎長ものは一世を風靡する[45]。 戦後間もない1951年12月25日に開局したラジオ東京(のちのTBSラジオ)で翌26日から早速、虎造の「浪曲次郎長伝」が放送された。NHKによる年1~2回程度の放送から、民放による週1回の放送に渇望した大衆により、圧倒的に時間が増え、同番組は聴取率調査で他を大きく引き離す一位の34%を記録する[46] など(俗にラジオ東京(現・TBSラジオ)の「虎造アワー[47][48]」として様々に提供・演題を変えながら帯番組として1961年まで継続)、「正直者は馬鹿を見る」社会で、戦前戦後の本音の言えぬ庶民を代弁した事で圧倒的な人気を得て、「昭和」の代表的イメージの一つにまで掲げられるほどの人気となった。虎造は1959年9月1日から11月24日まで放送された大阪・朝日放送ラジオの『虎造十三夜』(火曜 21:30-22:00)でも「清水次郎長伝」の題で演じている(曲師:佐々木伊代子[49])。 「次郎長伝」は平成期以降、二代目勝太郎の流れを汲む玉川太福が取り組んでいる。 落語三遊亭白鳥が浪曲「清水次郎長伝」をオマージュして取り上げた新作落語「任侠流山動物園」を演じている。上記玉川太福らが浪曲としても演じている。 文学郷土史家・堀文次が「荒神山の喧嘩」を中心に史実を探求、伊勢新聞等に発表し始めるのが1935年(昭和10年)であり、これは、長谷川伸、村上元三といった清水次郎長周辺の物語に興味を持った作家に影響を与えており、以降、小説等では、新たに明らかになった史実が盛り込まれるようになった[10]。 このうち、村上元三作の『次郎長三国志』(1952年)は、フシ付けされ上記「虎造アワー」で放送された[48]。映画化(後述)もされ虎造が出演している。 映画伯山原作とされる一覧「伯山原作」とされる一覧である[18][19][50]。国立映画アーカイブ、デジタル・ミーム等ではいずれも所蔵していない[51][52]。
その他(映画)虎造が作中で浪曲を披露する、という形で出演する映画は数多あるため略す。 村上元三『次郎長三国志』を原作とする作品は次郎長三国志#映画参照。マキノ雅弘が『次郎長三国志』シリーズ以外に手掛けた「次郎長もの」の一覧は次郎長三国志#他の次郎長もの参照。
テレビドラマ村上元三『次郎長三国志』を原作とする作品は次郎長三国志#テレビ映画参照。
楽曲「次郎長もの」を題材とした歌謡曲について記す。 その他の作品
脚注
参考資料
関連項目外部リンク |
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