清美川梅之
清美川 梅之(きよみがわ うめゆき、1917年1月5日 - 1980年10月13日)は、秋田県平鹿郡十文字町(現在の横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋所属の元大相撲力士、旧全日本プロレス所属の元プロレスラー。大相撲時代は、身長182cm、体重94kg。得意手は、左四つ、上手投げ、外掛け。最高位は、東前頭筆頭。 本名:佐藤 梅之助(さとう うめのすけ)。大相撲廃業後に入婿の形で結婚し、大橋 梅之助(おおはし うめのすけ)が本名となったが後に離婚、佐藤姓に戻している[2]。 来歴大相撲時代同郷の幡瀬川を頼って伊勢ヶ濱部屋に入門し、1934年1月場所で初土俵を踏む。当初の四股名は薩摩川。早くから有望視されるとともに順調に出世し、四股名を清美川と改名。1938年1月場所に十両昇進、1940年5月場所に新入幕を果たした。1942年5月場所には、12日目に横綱・双葉山を外掛けで倒し金星を挙げた[2]。また、1943年5月場所には、11勝4敗の成績で優勝旗手の栄誉に輝いている。 美男力士として人気があったが[1]、家業を継ぐこともあり、1946年11月場所を最後に廃業した。 プロレス時代1953年にプロレスへ転向し、山口利夫とともに旧全日本プロレスを旗揚げ。1954年2月には力道山がシャープ兄弟を招聘して開催した日本プロレスの旗揚げシリーズに参加している[2]。1955年からは木村政彦の国際プロレス団に移籍、翌1956年5月15日に木村とのコンビでラウル・ロメロ&ヤキ・ローチャを破り、中南米タッグ王座を獲得した[2]。 団体消滅後は、メキシコ、南米、アフリカ、ヨーロッパなど世界各地を転戦。アメリカのNWAトライステート地区では、戦前に活躍した日本人レスラーのキラー・シクマこと志熊俊一にあやかり、トーゴー・シクマのリングネームで活動[2]。1967年5月16日にはシャチ横内と組んでジャック・ブリスコ&ゴージャス・ジョージ・ジュニアから同地区認定のUSタッグ王座を奪取し、10月7日にダニー・ホッジ&スカンドル・アクバに敗れるまで保持した[3]。戴冠中はホッジとルー・テーズのコンビとも何度となく対戦したという[2]。 1970年に14年ぶりに帰国し、国際プロレスに参戦。以後、当時ホームリングとしていた欧州マットと国際プロレスのパイプ役を担い、マイティ井上や鶴見五郎をドイツのハノーバー・トーナメントにブッキングした[2]。自身も同トーナメントにおいて、1966年、1970年、1973年と通算3回の優勝を果たしている(1970年はレネ・ラサルテスと同率優勝)[4]。 1973年11月の帰国後はレフェリーに転向し、1974年3月19日に蔵前国技館で開催されたアントニオ猪木 vs ストロング小林戦(NWF世界ヘビー級選手権試合)を裁いている。また、全日本女子プロレスのコーチも引き受け、ジャッキー佐藤とマキ上田のビューティ・ペアをトレーニングした[2]。 その後、全日本女子プロレスを引退・退団した阿蘇しのぶらを擁し、女子プロレス団体『ワールド女子プロレス』旗揚げを画策。旗揚げ戦のポスターに自身も登場するなどしたが、諸事情により旗揚げ前に頓挫している[2]。 1980年10月13日、静岡県内にて脳卒中のため死去[2]。63歳没。 得意技その他離婚して家族とは別居していたが、プロレスラーとして長期海外転戦中の1957年4月2日、元妻に引き取られた当時12歳の長男が誘拐・殺害されている。 →詳細は「少年誘拐ホルマリン漬け事件」を参照
大相撲時代の成績主な成績場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦敗の数。
※他に大邱山と引分が1つある。 改名歴
脚注
関連項目外部リンク |
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