渡辺万寿太郎渡辺 万寿太郎[注 1](わたなべ ますたろう[2][3]、1903年〈明治36年〉7月6日[2] - 1966年〈昭和41年〉8月15日[4])は、日本の政治家、実業家、資産家[5]。新潟県岩船郡関川村長[2]。渡辺家11代[6][7]。 経歴新潟県岩船郡関谷村大字下関(現・関川村大字下関)出身。三左衛門の長男[1][2]。1929年、東京帝国大学文学部社会学科卒業[2][8][9]。1933年、家督を相続する[1][5]。司法省刑事局嘱託、東大文学部研究嘱託を経て1945年に関谷村長となる[3]。 農業を営む[1]。関谷村農業会長、新潟県農業会同県森林組連同県国民健康保険組連各理事、同県社会保険診療報酬算定協議会委員、同県農業実践大学協会理事同大学校長、同県国民健康保険委員、同県社会教育委員、同県地方森林会、同県医療機関整備審議会、同県公的医療機関運営審議会各委員、全国国民健康保険直営診療施設運営協議会理事に選ばれる[2][3]。 1951年、新潟県人事委員長に任命される[2][9]。1958年に再び県人事委員に任命され、1960年12月に委員長に互選[2][3]。1962年4月に県山岳協会長に推され、同年7月に県人事委員任期満了退職、同年9月に関川村長に就任する[2][3]。 新潟交通、鷹ノ巣温泉各取締役[2][9]、荒川タクシー、山富商事各会長[2]、新成医会理事長[2]、新潟県観光協会副会長などをつとめる[2]。 六三三制実験校誘致、診療所の開設、財団法人渡邉家保存会の設立など多くの社会貢献をした[6]。 人物趣味は書道[2][3]、読書[9]。宗教は曹洞宗[2][3]。住所は新潟県岩船郡関川村大字下関[2][9]。 家族・親族
渡邉邸は廻船業、酒造業や新田開発で財を築いた豪商・豪農の屋敷である[6]。1954年には国の重要文化財に指定された[6]。広さ3000坪の敷地に石置木羽葺屋根の母屋、6つの土蔵、国指定名勝の庭園がある[6]。初代儀右衛門善高は、村上藩主松平大和守直矩の家臣で郡奉行をしていたが、藩主が姫路へ国替えのとき、家督を嗣子に譲り、桂村に隠居、1667年、下関に転居し、代々大庄屋職を務めた[6][7]。 2代三左衛門善延は廻船業を営み、酒造業を開業して財を成した[6]。3代喜久は1726年、財政難に苦しんでいた米沢藩に融資を行い、幕末まで10万両以上用立て、その功により5代目以降米沢藩勘定奉行格の待遇を受けた[6]。7代善映(よしあき)は1798年、450石の知行を与えられ、米沢9代藩主上杉鷹山の藩政改革におおいに貢献した[6]。10代善郷(よしさと)は、1918年、米坂線の誘致に尽力し、1936年の全通に至る[6]。
脚注注釈出典
参考文献
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