熊本洋学校![]() 熊本洋学校(くまもとようがっこう)は、明治時代初期に熊本県熊本市にあった全寮制の学校。 沿革
教育1871年(明治4年)9月1日に肥後実学党の献策によってアメリカ元軍人・指揮官のリロイ・ランシング・ジェーンズが招聘された。ジェーンズは月給400円が与えられ、妻子と共に来日した。 ジェーンズは午前2時間、午後3時間の授業を行う契約を行っており、内容は英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物で、すべて英語で行われた。 明治7年、日本で初めて男女共学を行い、横井玉子・徳富初子(蘇峰・蘆花の姉)・横井みや子(小楠の娘)などが入学した。生徒の自主性を重んじる教育方針のもとに多彩な人材を輩出するが、熊本バンド結成に対する旧守派の反発が一因となって、ジェーンズの任期終了とともに閉鎖となる。 熊本洋学校で使用されたと目される教科書のうち、55冊が熊本県立大学に現存している。近年の成果で、現存書籍の書誌、受入の時期、さらには洋学校閉校後から熊本県立大学に至るまでの所蔵経緯などが明らかにされた[2]。 主な教師
主な卒業生
洋学校教師館(ジェーンズ邸)→詳細は「熊本洋学校教師館ジェーンズ邸」を参照
![]() 肥後藩が洋学校を開設した時にジェーンズのために作らせた西洋館は、熊本県指定重要文化財として昭和46年に指定を受け、現在中央区水前寺公園22-16に置かれており、観光地となっている。しかし熊本地震により2016年4月14日に壁の一部が崩壊、16日に全壊した。 以下、詳細について熊本県教育委員会文書を引用。
なお、ジェーンズ邸の西隣には夏目漱石の旧居が存在し、こちらも観光地となっている。 出典参考文献
関連項目外部リンク
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