甫庵信長記『甫庵信長記』(ほあんしんちょうき/ほあんのぶながき)は、江戸時代初期に儒学者で医師の小瀬甫庵が著した、織田信長を主題とした仮名草子。原題は『信長記』(しんちょうき/のぶながき)だが、太田牛一の『信長記』(『信長公記』)との混同を防ぐため『甫庵信長記』と通称される。 概要太田牛一の『信長記(信長公記)』をもととして書かれた書籍であり[1]、刊行本には古活字本と整版がある。古活字本にはカタカナ混じりとひらがな混じりのニ系統があり、カタカナ混じりの伝本が多く存在している[1]。整版は甫庵の加賀藩出仕後に刊行されたもので、寛永元年(1624年)、寛永21年(1644年)、寛文12年(1672)と相次いで刊行された[2]。 小林健三は甫庵の執筆目的を『儒教的価値観の宣揚』としている[2]。『信長記』では、信長を儒教思想の基づく英雄として描いているが、最終的には「天道」に従わなかったため、治世は長続きしなかったとしている[2]。 長篠の戦いにおける三段撃ちなど、彼の本から知られた逸話は多いが、甫庵は意図的に創作を取り入れているため、史料としての価値は極めて低い[3]。甫庵は太田牛一を「愚にして直な(正直すぎる)」と評し、牛一の『信長公記』が写本でしか伝えられなかったのに対し、甫庵の『信長記』は刊本として大いに流行り広く大衆に親しまれた。しかし大久保忠教は『三河物語』において、「イツハリ多シ(偽りが多い)」としており、三つのうち一つぐらいしか事実が書かれていないと評している[4]。また甫庵自身も『太閤記』に収められた『太閤記八物語』では、「(甫庵の信長記は)言葉が麗しくなく、文章の連続性もないと言われることが多い」が[5]、よく読まれているとしている[4]。 初刊年について初刊年については慶長9年(1604年)、慶長16年(1611年)、元和8年(1622年)の三説がある。慶長9年説は栗田元次が唱えたもので、同書の自序に慶長九年に夢のお告げがあって『信長記』を著すこととしたという記述によるものと見られている[6]。慶長16年説は林羅山が同書によせた序によるものであるが、偽造の可能性も指摘されている[7]。現在では川瀬一馬が唱えた元和8年説が主流となっているが[7]、柳沢昌紀は慶長17年に甫庵が『信長記』を白山神社関係に奉納したという記録などから慶長16年頃ではないかとしている[8]。長谷川泰志は元和8年説を取りつつも、慶長9年頃にはすでに刊行計画があったのではないかとしている[9]。 書籍情報
脚注参考文献
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