皇室裁判令
皇室裁判令(こうしつさいばんれい、大正15年皇室令第16号)は、大日本帝国憲法下における皇族相互の民事訴訟および皇族の子の身分に関する訴えを取り扱う皇室裁判所の構成・手続、皇族と人民の間の訴訟に係る事項並びに皇族に対する刑事裁判に係る事項について定めていた皇室令。日本国憲法の施行の前日である1947年(昭和22年)5月2日、皇室令及附属法令廃止ノ件(昭和22年皇室令第12号)により他の皇室令とともに廃止された。 沿革大日本帝国憲法において天皇はその法的地位が定められていたが、皇室については何ら定めが置かれていなかったため、その地位は不明確であった[1]。この点については同憲法と同時に裁定された旧皇室典範に規定が置かれていたものの、大日本帝国憲法の起草者である伊藤博文は、旧皇室典範は皇室が自らの「家法」を定めたにすぎず、国民に直接関係ないものとして公布する必要も官報に掲載する必要もないと考えていた[2][3]。 しかし、1899年(明治32年)に皇室改革について検討するための帝室制度調査局が設置されると、憲法上皇族は一臣民と何ら変わらないにもかかわらず「家法」に過ぎない旧皇室典範で特殊な地位を与えているとするのは無理があるので、旧皇室典範が憲法と同等の効力を有すると明らかにする必要があること、旧皇室典範が公布されないままだと皇族に与えられた特殊な地位に基づいた取扱いが徹底されない可能性があること等を理由として、旧皇室典範を「家法」から脱却させ、皇族の地位を明確にする必要があるとして改革が行われた[4][5]。これを受けて公式令(明治40年勅令第6号)が制定され、同令第4条の規定により皇室典範の改正は憲法・法律と同様に公布の対象となった。また、皇室典範増補の制定により皇族の法的地位が明確化され、次のように皇族に関する法律の適用についても定められた。
このように定められたことにより、皇族に対しては皇室典範・皇族令が原則として適用されること[6]、逆に言えば一般の法律・勅令は原則として適用されないことが明らかとなった[7]。 これを言い換えると、制定されている法律一般について皇族には適用がないのが原則で、その例外としては、皇室典範又は皇室令で「皇族は○○法の適用を受ける」旨を定めた場合や、○○法自体に「この法律は皇族にも適用する」旨定めた上で、皇室典範又は皇室令にその法律と矛盾する定めがない場合(矛盾する場合は皇室典範・皇室令の定めが優先する[8]。)に限られた[9]。民事訴訟法、刑事訴訟法、裁判所構成法等にはそのような規定がなかったので、これらを皇族に適用することはできず、皇族に関する裁判は全て皇室典範・皇室令の規定によらなくてはならなくなった。 しかし、旧皇室典範に定められた皇族に係る訴訟に関する規定は、次に掲げるように甚だ抽象的なものしか存在しなかった。
特に第49条について穂積八束は、「裁判員」が誰を示すのか不明である、判決の執行に係る規定が存在しない、書面審理・口頭審理の別が定められていない、上訴を許すかどうかも定められていない等、本条は皇族の民事訴訟を司法裁判所で取り扱わない旨を定めたにすぎず、細目的規定が必要であると述べていた[10]。また、刑事訴訟に関する規定は一切存在しなかった。 このような不足を補うため、1916年(大正5年)に設けられた帝室制度審議会が皇室裁判令案の起草に着手し、1917年(大正6年)に全131条からなる案を宮内大臣を通じて内閣に提出した。その際の内容はおおむね次のようなものであった[11]。
![]() 当該案について、内閣は特に意見なしとしたが[12]、枢密院に諮詢された後、枢密顧問官であった末松謙澄の強固な反対により議論が紛糾した。末松の反対の理由は「裁判所」という名称は穏当ではないとする、皇族に対する強制執行や刑事訴訟の規定をすべて削るよう求める[13]等、皇族の尊厳に少しでも抵触することによる社会的・政治的影響を避けたいという考えがあったのではないかと考えられている[14]。当該案については、結局宮内省が撤回することによって廃案となった[15]。 その後、1926年(大正15年)になって帝室制度審議会が改めて案を起草し、宮内大臣を通じて内閣に提出の上枢密院に諮詢、修正の上で全会一致で可決され、同年12月1日に公布された[16]。前回の案が全131条であったのに対し、可決されたものは全32条とスリム化されたほか、強制執行の規定を含めない等、前回法案時の反対派の意見を取り入れた部分もあったが、「裁判所」という名称を採用し、また、刑事訴訟の規定を置く等、前回の法案から変わらない部分も存在した[17]。 本令の公布に当たり、宮内省参事官は、皇室相互・皇室人民間で訴訟を提起し争うようなこと、皇族自らが犯罪を犯すようなことはもとよりあるべきではないが、制度としては万が一に備えて用意して置かなければならない、と述べている[18]。 規定本令の規定は、皇族の民事訴訟の取扱い・皇族の刑事訴訟の取扱い・その他民事刑事に貫通する規定の大きく3つに分かれる。なお、あくまで本法の対象は皇族であり、大日本帝国憲法第3条の神聖不可侵の原則から当然に天皇を対象にすることは考えられていなかった。そのため、本法は「皇室裁判令」ではなく「皇族裁判令」ではないかとも言われる[19]。このことについて、美濃部達吉は、いかなる法律も君主を責問する力はなく、如何なる裁判所も天皇に処罰を加える権威を有し得ない、と説明していた[20]。ただし例外として、天皇の財産である御料に関しては一般に民事・商事の問題となるが、その場合は宮内大臣を当事者とみなした(皇室財産令第2条)[21]。 皇族の民事訴訟皇族相互の民事訴訟・身分に関する訴え
皇族と人民の民事訴訟
皇族の刑事訴訟司法裁判権の裁判権の範囲に属する刑事訴訟
軍法会議の裁判権の範囲に属する刑事訴訟
雑則
脚注
参考文献
関連項目 |
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