真言宗智山派真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)は、日本における仏教の宗派の一つ。弘法大師空海を始祖とし、真言宗中興の祖・興教大師覚鑁(1095年 - 1144年)を開祖とする新義真言宗と呼ばれる宗派の中の一つ。天正5年(1577年)に根来山の能化職となった玄宥(1529年 - 1605年)が、天正13年(1585年)、秀吉による紀州征伐で焼き滅ぼされた根来山智積院を、慶長6年(1601年)、徳川家康の許可を受け寺領(豊国神社付属寺院の土地建物)を拝受し復興させたことを端緒に創建されることとなった宗派である。 宗紋![]() 桔梗紋 本尊教義
歴史真言宗智山派の歴史は根来寺の塔頭智積院の開創に始まる。智積院は、もともと根来寺の塔頭であった。根来寺の前身である大伝法院は覚鑁が大治5年(1130年)に高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代にこの大伝法院の塔頭として真憲坊長盛が学問所として建立したものである。 天正13年(1585年)、根来寺は豊臣秀吉によって全山炎上するが、智積院の住職であった玄宥は、弟子たちを引きつれて寺を脱出して高野山に逃れた。その後、玄宥は新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興運動を行った結果、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康により、京都東山の豊国神社の付属寺院を与えられ、智積院は再興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅びると、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地をも与えられてさらに規模を拡大し、山号を五百佛山、復興後の智積院の寺号を根来寺とした。 明治時代に入ると、明治政府の宗教政策により、他の真言宗宗派と1879年(明治12年)に合同する。しかし、1900年(明治33年)9月、智積院を本山とする新義真言宗智山派として独立する。 1941年(昭和16年)3月、古義真言宗・新義真言宗系の宗派が政府の政策によって合同し、大真言宗が成立する。が、戦後独立し、 真言宗智山派として現在に至る。 →詳細は新義真言宗#歴史の項目を参照
総本山智積院歴代化主(智山派管長)
寺格総本山
別院
大本山別格本山旧別格本山化主出身・隠居寺院
教育機関宗立教育機関
宗内教育機関
関連団体
施設
関連項目
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