真言宗醍醐派真言宗醍醐派(しんごんしゅうだいごは)は、日本における真言系仏教宗派のひとつで、古義真言宗に属する。総本山は醍醐寺。修験道の一派、当山派の中心でもある。 法流
洞泉相承と伝えられるが醍醐寺発行の血脈には洞泉房性善の名はなく実質的に定済方である[1])。また斎藤明道『三宝院流幸心方四度加行伝授目録』によれば「醍醐三宝院は彼の定済の末流なり。然るに後の門跡賢俊、光済等の時、武家眤近の権柄を執て法流に於ては大概断絶するか、無念の事也(中略)今当院伝うる処は即ち此の良純、真源の相承也[2]」と述べられている。現在醍醐寺より発行されている血脈で言えば三宝院流定済方ではある。しかし斎藤氏が述べられているように定済方の血脈は既に断絶しており、昭和三年の段階で斎藤氏は真源の相承であったと述べられている。このように醍醐寺に於ける法流は錯綜している状況と言わざるを得ない。 なお斎藤氏は岡田戒玉師の徒弟であり、平之亮禅より伝授を受けられ、醍醐寺教学部長、伝法学院講師を勤められ、塔頭寺院成身院の住職であった。
宗紋
寺格
沿革真言宗醍醐派の歴史は醍醐寺の開創に始まる。聖宝が如意輪観音・准胝観音を彫刻して深雪山山上に祀ったことが醍醐寺の起源となった。醍醐天皇・朱雀天皇が誕生されるに当って、皇室より聖宝に対して祈祷の依頼があり、無事に出産、誕生されたために、皇室の帰依を得るようになった。この後より、伽藍の整備が整い、現在の醍醐寺の基礎が確立した。 平安時代、摂関政治が隆盛を極めるころには、皇室の保護が薄くなった。院政期になると、醍醐天皇系統の宇多源氏・村上源氏が財政的・人事的にも醍醐寺を護持する中心となり、伽藍・諸堂の拡充、醍醐寺座主を輩出することになった。 真言宗の事相(真言密教の儀礼・実践方法)の法流の一つである小野流の研究が盛んであった。事相研究のなかで、特に図像研究においては、中心寺院として知られていた。 応仁の乱では伽藍の多くを失い、衰微した時期があったが、当時の座主であった義演が豊臣秀吉と友好的な関係であったため、豊臣氏が財政的な援助を行って伽藍を建立し、本格的な復興を果たした。 明治時代に入ると、明治新政府に寺領・特権を返上して衰微したが、やがて文化財保護が重要視されるようになると伽藍の整備・寺宝の保護が図られるようになる。しかし、明治政府の宗教政策により、他の真言宗宗派と1879年(明治12年)に合同し、東寺の傘下に入って定額寺・大本山として、醍醐寺・三宝院がともに列した。 1900年(明治33年)9月、醍醐寺を本山とする真言宗醍醐派として独立する。 醍醐寺は、真言宗系修験道を支配する寺院であったが、明治に入って修験寺院の廃止が決定すると、寺院内に恵印部を設けて修験寺院の統制を行った。が、1919年(大正8年)には恵印部を廃し、修験寺院を末寺とすることになった。 1941年(昭和16年)3月、古義真言宗・新義真言宗系の宗派が政府の政策によって合同し、大真言宗が成立する。 戦後である1946年(昭和21年)に大真言宗より独立し、真言宗醍醐派として現在に至っている。 醍醐寺座主(三宝院門跡)歴代
( )内は、三宝院門跡歴代 ○数字は醍醐派管長歴代 宗務組織
僧階(全15階級)・布教師括弧内は法衣の色
布教師
僧籍年中行事
教育機関
教義古義真言宗の教義に準じる 施設
出典
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