秋田県立横手城南高等学校
秋田県立横手城南高等学校(あきたけんりつ よこてじょうなんこうとうがっこう、英: Akita Prefectural Yokote johnan Senior High School)は、秋田県横手市根岸町に位置する県立高等学校。通称「城南(じょうなん)」。 概要横手城南高等学校は、1913年に開校した実科高等女学校を前身とし[2]、1922年に高等女学校へ組織変更、翌年には町から県に移管[3]、1948年には学制改革により新制高等学校が発足し、現在の横手城南高等学校となった[4]。2008年に男女共学化した[1]。 現行の校舎は1999年竣工で、現在のグラウンドの位置にあった校舎を横手北小学校(初代、1997年閉校[5])跡地に移転してきたものである[6]。 小説『青い山脈』で知られる作家「石坂洋次郎」が2年間(1926年 - 1928年)国語科教諭として赴任している[7]。 校訓2008年の男女共学化に合わせて制定されたもので、生徒指針はそれ以前の校訓[8]。
沿革開校に至るまで1901年に秋田県立高等女学校(現:秋田県立秋田北高等学校)が秋田市にて開校、中等教育を望む女子の進学先となっていたが、県北・県南地区に高等女学校は存在せず、県立高等女学校へ進学するのは裕福な家庭に育つ者に限られていた[9]。 1910年10月26日に高等女学校令が改正(明治43年勅令第424号[10])され、主に家政に関する学科目を修める「実科」を設置する「実科高等女学校」の制度が設けられた。実科高等女学校は高等女学校とは別に、中流家庭以下の女子を対象に簡易な中等教育を行うもので、県は実科高等女学校の設立を推奨した[2]。 1913年1月末に横手町(1951年市制施行、旧横手市)が県に町立実科高等女学校の設立を申請し[2]、2月21日に認可された[11][1]。同年4月21日に「横手町立実科髙等女學校」として横手女子尋常高等小学校(後の横手市立横手北小学校〈初代〉)に併設する形で開校し、授業を開始した[11][2]。この日が開校記念日として制定されている[1]。 県移管と高等女学校への組織変更1917年の県会にて、知事である川口彦治が県内において高等女学校を一校増設するとの意向を表明し、県内各地の高等女学校誘致運動が勃発した[3]。1918年には横手町を設置候補地とし県が調査を行うが、米騒動による物価高騰により、高等女学校の設置は財政上困難であるとされた[3]。 1922年1月に高等女学校への組織変更を申請、同年3月に許可され[3]、「秋田縣横手髙等女學校」へと改称した[11]。この際に、現行の校歌(作詞:幸田露伴、作曲:小松耕輔)が制定された[12][11]。ただ、同年10月に新知事として就任した岸本正雄によって、実科高等女学校よりも高等女学校を増設し、かつそれらを県立とする方針が表明[3]。1923年に横手髙等女學校のほか、町立大館・能代、郡立仙北の高等女学校が県立高等女学校へと組織変更し、横手・大曲・大館・能代の県立高等女学校が設立された[3]。秋田縣横手髙等女學校は「秋田県立横手髙等女學校」へと改称された。 横手城南高等学校へ戦後である1947年に学校教育法が施行され、旧制中学校に代わる新制高等学校が発足、秋田県立横手髙等女學校は「秋田県立横手城南高等学校」と現在の校名に改称した[4]。校名変更の際、「桜谷(さくらだに)」や「桜ヶ丘」「城南」「根岸」の校名の候補が上がり、校内投票を実施したところ「城南」が再多数であったことから「城南高等学校」へ決定した[4]。当時の横手市内では、横手城南の他に横手美入野(現:横手高等学校)と横手工業(後の横手清陵学院高等学校)が新制高等学校として発足した[4]。 校舎裏の高地に位置していた横手市立横手北小学校が、児童数減少に伴う通学区域再編によって1997年3月31日に閉校し、朝倉小学校へと統合された[5]。校舎の老朽化に伴う改築期が迫っていた横手城南高等学校校舎は、横手北小校舎の跡地に1999年に新校舎を建設し、移転した[5][6]。移転元の校舎跡地はグラウンドとして整備された[6]。 年表以下、注釈の無い項目は学校の公式サイトの情報によるもの[1]。
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部活動
周辺関係者卒業生
教職員
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
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