笠間稲荷神社
![]() ![]() 笠間稲荷神社(かさまいなりじんじゃ)は、茨城県笠間市にある神社(稲荷神社)である。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社となっている。別称胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)、紋三郎稲荷[1]。 五穀豊穣、商売繁盛の神として古くから厚く信仰され、関東はもとより日本各地から年間300万人を超える参拝客が訪れる[2]。また、正月三が日の初詣には80万人以上の参拝者が訪れ、初詣参拝者数で茨城県1位を誇る[3]。 東京都中央区日本橋浜町には、当時の笠間城主牧野家の下屋敷があり、その地には藩主が笠間稲荷神社より分霊を受けて建てられた笠間稲荷神社東京別社がある[5]。 祭神
祭礼例祭例祭は4月9日に行われる例大祭である。4月9日は創建の日とされている。 笠間の菊まつり10月中旬から11月末にかけて、笠間稲荷神社を中心に開催されている。 明治23年(1890年)以来、境内で「朝顔会(朝顔展示)」を開催していたが、これを明治41年(1908年)、当時の宮司が発展させ、農園部を設置し、菊花の展示を開始した。元は人々の心を和ませ、信仰を育むために始めたものという。大正2年(1913年)からは全国菊花品評会が、戦後の昭和23年(1948年)からは菊人形展がそれぞれ開催されるようになった [6]。 近年は「笠間の菊まつり」として、笠間稲荷神社初詣と並び、80万人弱の観光入込客数を記録するイベントに発展した。開催期間中には、神事流鏑馬、奉納笠間示現流居合抜刀術、大和古流奉納式、舞楽祭等の神事が行われている。 境内社聖徳殿と五末社がある[7]。
東京別社![]() 東京都中央区日本橋浜町二丁目11番6号に別社笠間稲荷神社がある。本殿の左側には寿老神が祀られており日本橋七福神の一社でもある[5]。 安政6年(1860年)、笠間藩主牧野越中守貞直が濱町の藩邸内に分祀したものである。私祠であるが、初午の日には市民の参拝のために門戸を開放したという[5]。 明治6年12月(1873年)、現在の地に遷座。明治11年3月6日(1878年)、官許を得て庶民の参拝を許した[8]。 明治21年(1888年)、牧野家より笠間稲荷神社に移管された[5]。 大正12年9月(1923年)、関東大震災により社殿が焼失、直ちに再建される[5]。 昭和20年3月(1945年)、東京大空襲により、ふたたび社殿が焼失するが、同年12月に本殿と仮社務所が出来上がり、昭和28年9月(1953年)には拝殿を再建[5]。 昭和32年(1957年)には社務所、昭和33年(1958年)に玉垣、昭和53年(1978年)までに幣殿が完成、現在に至る[5]。 歴史創建創建に関する伝承は口碑によるもので、文献記録はない[9]。勧請元となった稲荷神社も不詳である。
笠間稲荷神社ウェブサイトの由緒では、当時、社地一帯は胡桃の密林であったという。戦前の取材による茨城県神社写真帳には、「広漠とした荒野の片野の一本の胡桃樹下」であったと記されている[11]。新編常陸国誌には、「胡桃の大木」の下であったと記されている。 笠間の地名について常陸国風土記の新治郡の条に、郡から東50里に笠間村があり、越え通う山を葦穂山といい、そこにはかつて油置姫命という山賊がいたという記述がある。これは笠間村ではなく、葦穂山(足尾山)の記事である。 笠間村に関する記述はなく、当時の様子は詳らかでない。神社ウェブサイトの由緒は、その頃には宇迦之御魂神への信仰が根付いていたのではないかとする考察を付している。 古地名としての笠間は、常陸国新治郡の他に、大和国宇陀郡、伊勢国員弁郡、加賀国石川郡、越前国坂井郡等にも郷名として存在する。比較地名を主題とした「郷名同唱考」は、笠間の名義は不詳としつつも、大宮咩命(おおみやのめのみこと。大宮売神)に由縁のある地名ではないかとする考察を付している。大宮咩命は、伏見稲荷大社三座の一(大宮能売大神)でもあることから、稲荷神として祀られていることが多い。ただし、笠間稲荷神社の祭神ではない。
近世創建以後、江戸中期までの沿革は不詳である。江戸時代になると広く知られるようになり、歴代の笠間藩主が厚く崇敬した。三代藩主松平康長や忠臣蔵で有名な浅野家なども、転封し笠間を離れても分霊を新たな領地で祀るなど、庶民のみならず歴代藩主からも手厚い信仰を受けてきた。 今日の笠間稲荷神社の隆盛は、井上正賢(まさかた[14])の頃から始まる。天明4年12月朔日(1784年)の社蔵文書に、次のような縁起が記されている[15]。
延享4年3月19日、井上家が移封となり、新たに牧野備後守貞通が笠間藩主となった。牧野家は、井上家の先例に倣って笠間稲荷神社を祈願所と定めた。 2代目藩主の牧野備中守貞長は、京都(朝廷)に具申し、独立に「神位正一位稲荷大明神」の賜号を受けた。 8代目藩主の牧野越中守貞直は、重要文化財となった社殿の造営や東京別社の創建に寄与した。
その他、牧野家からは朱印地5石及び祭器等の寄付があった。 新編常陸国誌には、「もと此地に胡桃の大木ありて、其下に鎮座せしいささかの社なりしが、近年改造を加へて、美麗の社檀とはなれり」と記されている。 明治以後明治維新後、近代社格制度で旧村社に列した。神社明細帳における名称は「稲荷神社」である。以降、旧郷社への昇格はなかったが、戦前には既に全国的に著名だった[注釈 1]。 明治23年(1890年)、「朝顔会(朝顔展示)」を開始した。 明治41年(1908年)、菊花の展示を開始した。 昭和63年1月13日(1988年)、笠間稲荷神社本殿(附、棟札1枚)が国の重要文化財となった。 文化財重要文化財大鳥居再建![]() ![]() 笠間市で採掘される稲田石を使用し[18]、1990年に建てられた大鳥居が、2010年10月の小規模な地震によって一部崩落したため、翌年に起きた東日本大震災より前に撤去されていた[18][19]。 震災で被災した本殿などの修復が急がれ、大鳥居のほうは再建の着工が遅れていたが、半年余りかけて2016年10月に完成した[18]。高さは以前の約8メートルから約10メートル、鉄製に変更され、拝殿の色と同じ「笠間朱色」で塗装された。総工費は約9千万円、全額を全国から寄せられた寄付金でまかなった[18][19]。 なお「笠間朱色」とは、門前通りの景観整備が進められた2013年以降に命名されたものであり、まちづくりに関する方針として打ち出された統一感を創出するためのシンボルカラーの呼称である[20][21]。 坂本九とのゆかり坂本九は幼少期の不思議な体験から、この神社を篤く信仰するようになった。1943年、2歳の時に母と乗った列車が事故を起こし多数の犠牲者を出したが、坂本母子は直前に他の車両に移っていたため助かった。この経験から「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」と信じ、終生信仰を続けた。自身の結婚式もこの笠間稲荷神社で執り行っている。1985年の日本航空123便墜落事故で坂本九が亡くなった際、遺体の身元判明の決め手となったのは、胸に突き刺さっていた「笠間稲荷」と刻まれたペンダントだった[22]。 交通アクセス
脚注注釈
出典
参考文献
※は国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧可能。2017年3月22日閲覧。 関連文献
関連項目外部リンク
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